2012年6月4日月曜日


8: 忍法帖【Lv=23,xxxPT】 :2011/05/05(木) 07:03:40.69ID:7SITM7rt0
とりあえずこれ聴いて元気だそうぜ


9:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:04:18.94ID:6yMe/mdhO
クウガを説教していいのは一条さんだけだろ


10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:05:43.43ID:cCDUno9h0
「君のとこの○○くん、あれはいかんな。彼のデスクみたか?」「ほぇ・・?デスク?すみませんまだ確認しておりません」
「ちょっと見てきなさい、あまりうるさく言うのは私も嫌いだけどさ」
ってことでソイツの机見にいったんだよ。俺の後輩だけど、部署が違うから見たことなかったんだ

11:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:05:52.00ID:3bY1HHXX0
クウガを敵に回すとか愚かにも程がある

16:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:10:33.96ID:cCDUno9h0
できるだけ気づかれないようにそいつの部署覗きにいったら、同い年の事務のすみれちゃん(仮名)に
気づかれた「(>>1)さん何やってるんですか!楽しそうですね(・∀・)ニヤリ」「・・いや、ちょっと○○(オダジョー)の様子を見に来たんだけど・・」
「○○(オダジョー)は今席外してますよ!ここの席です」

そして案内された机を見ると驚愕。机の上には空き缶がズラリ、PCのモニターにはモンキー人形がかかってるし
イスなんか会社のイスですらなかった(なんか網網のアジアンっぽいやつ)

17:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:11:05.53ID:fYx++Ou5O
違う部の人を怒る課長って変なの
それを見に行く>>1も最高に変
いかれた会社に勤めてるんだな

23:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:17:25.54ID:cCDUno9h0
>>17
会社ってのは普通課長は課長で横の"つながり"あるからな。オダジョーのいる部署の課長と同期だし。
たぶん噂が耳に入ったんだろう。というか噂になるほど有名だったんだな。もちろんその会話には
「オダジョーについてる奴って××(>>1)だろう」とかなんとか・・・・ハァ・・・・

19:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:13:41.41ID:8tEZk4/40
金太郎曰く節穴の会社だな


20:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:14:31.34ID:cCDUno9h0
文字通り言葉が出ないってやつだった「・・・・・(よく今まで俺が監督不行き届きで注意されなかったくらいだ・・・)」
今思えば、ちょっと自由にさせ過ぎたのかもしれん。尊敬がどうのこうの私情も入ってたからだと思う
んでここはガツンと言ってやろうと、オダジョー戻るまで待ってたのよ。

24:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:20:12.23ID:cCDUno9h0
待ってる間すみれちゃん(仮名)の様子がどうもおかしい。ソワソワしてる。
そして奴が来た。「うぃーーっす、結構並びましたよ。震災の影響っすかね。はい、すみれさん食パン」

こいつは何を言ってるんだ

27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:23:00.57ID:cCDUno9h0
「あれ、センパイ 何でここにいるんですか?何か用事でも・・・?」
「おい、○○(オダジョー)、お前なんだその買い物袋は」「え?・・・買出しっすよ・・・」
「10時半に買出しする馬鹿どこにいるんだ!!!!!!!!!!」 思わず声あげちまった

28:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/05/05(木) 07:23:08.88ID:+pgVWS7D0
オジギリダョー

2012年6月3日日曜日


もともとは研究用ソフトウェアの開発履歴に関するページだったのですが、開発関連よりも雑談の方が多くなったので、2001年分から別のページを用意することにしました(過去のページの一覧はこちら)。リンクは勝手にしてください(でもリンクしたい人なんているのでしょうか)。それから海外出張の写真一覧はこちらにのせてあります。筆者のプロフィールはこちらです。SNSは苦手なのですが、Twitterもはじめてみました(ichiro_satoh)。なお、このページはRSSに対応していませんが、外部のを使うとRSS購読もできるそうです(当方は関知していません)。下記はあくまでも個人の意見であり、組織を代表するものではありません。

2012年6月1日

とうとう6月。信じられません。今月前半は怒濤の忙しさになりそう。乗り切れるかなぁ。

2012年5月31日

Paxosについて聞かれることがあるので、少々。PaxosはL.Lamportが提案した分散システムの耐故障性をもつ分散同意アルゴリズム。同意アルゴリズムというのは各コンピュータで同じ値を持つことを保証するアルゴリズム。それが簡単なようで難しいのが分散システム。なんでPaxosというかというと、L.Lamportは分散システムにおける故障の問題をビザンチン(東ローマ帝国)における将軍の裏切りにメタファにおいた論文"The Part-Time Parliament"を書き、その後は同種の問題はビザンチン問題と呼ばれ、定番専門用語になったのですが、それの再来を狙ったのか、ギリシャのPaxos島で永遠に議論を続ける逸話にメタファにして、彼の新しい分散同意アルゴリズムを説明したのでした。ただ、この論文は非常に難解。その当たりの背景は彼のノートを見てください。その後に国際会議PODCで、彼自身の簡易なPaxos解説を文章化したのが"Paxos Made Simple"という論文。だから、手っ取り早くPaxosを理解したいならば、こちらを読むべきでしょう。

ちなみに1998年に論文"The Part-Time Parliament"が論文誌ACM TOCSに掲載されたときは、投稿から10年して、引出で発見されたとか、Lamportは考古学者になったとか、ジョークが書かれており、それで話題になりました。というわけで当方も読んでみましたが、まったくというのほど理解できませんでした。もうすこし正しくいうと何をしたいのかという課題設定すらわかりませんでした。

そのあとにLamport自身を含めて数多くの拡張が行われます。そのあたりは分散アルゴリズムとしては面白いのですが、もしPaxosを実装するうえで重要なのはChandraの"Multi-Paxos"の論文でしょうね。"Multi-Paxos"はGoogleのChubbyのベースになったPaxosに関するもの。もうひとつは埋もれていたPaxosを注目されることになったLampsonの論文と、Jim GrayとLamportの共著論文。このあたりは読んでおくといいでしょうね。なお、分散アルゴリズムの研究者は、一般のアルゴリズムの研究と同様に、アルゴリズムそのものよりも、アルゴリズムの証明に注力する傾向があり、実装に向かないアルゴリズムも多いのです。

2012年5月30日

今回の出張は先方持ちということで、前からいきたかった九州国立博物館にいってみる。途中で、高名なマイケル・サンデル教授と話すことになったり、いろいろ体験をすることに。昼過ぎには福岡空港から羽田に移動。

2012年5月29日

福岡で講演。最初の講演なのに時間オーバーして、後の講演に迷惑をかける。反省でございます。

2012年5月28日

午前中は慶大の大学院授業「計算モデル」、夕方は勤務先の大学院「分散システム」。後者はひたすらデータ複製の話。ご参考に授業用資料をここにおいておきます。分散システムではデータ複製は、性能改善及び信頼性向上では必須技術なので、丁寧に教えておかないといけないところ。原始的なPrimary Backup方式(データベース屋さんだとPrimary Copy方式)が妙に詳しいのですが、なんだかんだといって一番多く使われているので、Quorumなど新しい技術を知る上でも、定番手法とその損得をきちんと理解しておくことは必須。

ここ数年は分散システムが実務でも広く使われるようになったためか、特定の流行手法についてだけで、手短に教えてほしいとよく頼まれます。でもそれって教わる方にも、無意味なのですよね。例えば数学でいえば、代数的素養がないのに圏論だけ教えてくれ、といっているので同じ。さらに分散システムで求められる機能の多くは複数の手法で実現できます。でもそれぞれの方法には損得があります。だからそのうちの手法のひとつだけをしっても仕方ない。同じ機能を実現する複数手法を含めて体系的に勉強しないと理解できない。遠回りに見えて、体系的に勉強すべきで、例えば流行の勉強会のように単発または数回の講座でわかるほど浅くない。その意味では大学院などできちんと勉強した方がいい分野。ちなみにこの授業で� ��、上述の資料を90分の授業2回分なのですが、それ以外に補足する論文が5本、論文1、論文2、論文3、論文4、論文5でした。最新知識はどんどんアップデートされていくので、結局、論文をおうしかないのですよね。古い論文も含まれますが、毎年、補足論文は入れ替わっています。

また分散システムはOSほど技術が整理されておらず、技術と技術が独立ではない。例えば二つの技術を例にとります。一つは分散同意アルゴリズムは相違なコンピュータ間で値を共有するためのアルゴリズム。もうひとつは原子ブロードキャスト、これは多数のコンピュータにデータが送信して、受信時に他の通信と順番が入れ替わらないように通信する方法。つまり前者は状態に関するアルゴリズム、後者は通信手法。前者で後者をエミュレートできるし、後者で前者をエミュレートできます。原子ブロードキャストというのは分散同意アルゴリズムと同じで、受信者に同じ値を渡しているわけですから。分散システムの諸技術は一見違うようですが、実は同じだったり、一方が別の技術と衝突したりで、やっぱり体系的に勉強した方� �いいんですよね。

2012年5月27日

論文を読むのは仕事の一部ですが、正直いって、難しくてわからない論文に出会うことが多い。研究者には、難しくてわからなかったということをいわない方が多いのですが(なんでもわかる方もおられるでしょうが)、当方はというと、自尊心というのが希薄なこともあり、難しくてわからなかった論文、自分には難しくてわからなかったと、まわりの研究者にも学生さんにも堂々といってしまう。むしろ、わからないことをわかったふりをすることは研究者としてはしてはいけないことだと思っているから。

逆に学生さんをみていて、伸びない学生さんというのは共通点があって、勉強する場合でも、論文を読む場合でも、自分が理解していること、知っていることを確認するために教科書を読んだり、論文を読んだりしています。受験勉強ならばそれでもよかったかもしれませんが、自分の頭の良さや知識の多さを確認しても意味がない。むしろ、自分がわからないこと、知らないこと、気がつかなかったことを見つけることが大切。その辺のモチベーションの違いが大きな差になって表れますね。

それと独善的に聞こえるかもしれませんが、むしろ自分がわかるか否かを研究の評価軸だと思っています。わからない論文に出会ったら、自分がわからないのだから、わかる人は窮めて少数と判断しています。多くの場合は論文のプレゼンに問題があるのですが、コンピュータサイエンスも深化が進んでいて、難解な理論や難解なシステムは増えています。ただ、難しいと感じるような方法は実装が技術的に難しかったり、また実装する人がいなかったりします。だから難しいということを見極める感覚はたいせつ。

2012年5月26日

ニコンのD800Eを使わしてもらう。レンズは純正の24-70mm f/2.8。正直いって当方の腕では使いこなせない。IRフィルターなしの3600万画素はピント部分とそれ以外がはっきりわかり、オートフォーカスを使うにしても、フォーカスした部分に相当しっかり合焦させないとピントがあってないことが丸わかり。それと一眼レフならば1/30秒ぐらいならば、風などの悪条件でもなければ、ブレない自信があったのですが、解像度が高いのでブレがまるわかり。ISO値を上げて、シャッター速度を稼がないと手持ちはちょっと辛いかもしれません。ミラーの振動を拾ってしまうという話がありましたが、頷ける感じ。人は撮りませんでしたが、わずかな木々の揺れでぶれます。それとF値を大きくすると回折がわかりますね。教科書的には知っていましたが、実感できたのは初めてでした。カメラ雑誌のレビュー ではないですが、使ったのはズームレンズとはいえ、35mm(135)用レンズの限界を超えています。逆に言うとキヤノンが5D-MK3で、画素数を上げなかったのは正しいかも。というわけで次は5D-MK3を借りるチャンスを狙います。でも正直いって大きな一眼はもういいかも。だって重いの辛いから。

2012年5月25日

仕事柄、SI企業のPMさんやシニアSEさんと話すことが多いのですが、自分が関わっているシステムに使われている技術を知らない人が多い。これは研究者にもいえるのですが、技術的にわからないことを、わからないといえないと、どんどんわからないことが増えていく。PMさんだと立場上、技術に精通しているという立場だから、技術上の初歩的な疑問は聞きにくい。そこできかないと、わからないことが上積みされていくんですよね。なんでこんなことを書いたのかというと、最近、比較的若いSEさんでも増えているように思ったから。SI企業が設計工程の上流にシフトするのはいいのですが、下流の技術を驚くほど知らない。恥ずかしがらずに現場に聞けばいいと思うのですが、できないのですかね。最近、SI企業の技術力の低下が指� �されますが、これはミクロ的なことですが、低下の一番大きい要因のではないかと思っています。

2012年5月24日

学生指導を語るほど学生指導をしていないのですが、ひとつだけ決めていることがあって、それは学生さんの研究テーマと自分の研究のテーマは合致させないということ。というのはコードはもちろん、アーキテクチャでも、指導教員のコードやアーキテクチャに不備があっても、学生さんは、どうして「このコードにしたのですか?」、「どうして、このアーキテクチャにしたのですか?」は訊ねられても、「このコードはダメ」、「このアーキテクチャはおかしい」とは言いにくいから。もし指導教員のアーキテクチャやコードに問題があると、学生さんも巻き込むから。それだけは避けたいから。

ソフトウェア系の研究室は、指導教員がアーキテクチャを設計したり、プログラムを書いたりすることも多いのですが、でも指導教員と学生さんの共同プロジェクトでうまくいった例をあまり見ないのですよね。よくあるケースとしては予算プロジェクトの関係で、指導教員が提示したアーキテクチャを学生さんが作っているような場合、上述のような状態になっていることが多いですね。もちろんそれ以外のケースもあるわけですが。

それともう一点を気をつけている点をあげると、学生さんには研究テーマを決めるときに、そのテーマをやめる条件も決めてもらっています。企業に就職するケースでは、学生時代の研究を企業で続けられることは少ないので心配なのですが、アカデミアに就職すると博士論文の研究テーマを引きずる人がいるので。実際、失敗する研究者をみていると、昔の研究テーマをずるずると続けて、時代から取り残されるケースが多いですから。それに同様に取り残される研究者は何人かは残りますから、本人はまわりもやっているからと思って、取り残されていることに気がづかない。逆に能力のある研究者だと、数年後、世の中で流行る研究テーマを予測できるのですが、実際に世の中で流行ったからといって、その研究テーマを続けるか� ��別問題。むしろ世の中で流行ったのなら、企業に任せればよく、アカデミアの研究者はさっさと次のテーマにいった方がいい。

当方自身はというと、新しい研究テーマをはじめるときは、そのテーマをやめる条件項目を作って、それをメモしてあります。その条件に少しでも抵触したら、そのテーマから撤収。各研究テーマの撤収条件は、○○技術で他の研究者に先に行かれたら、××技術が商業化されたらなど。もちろん、先のことはわからないのですが、概して初期の方が冷静に分析できるいるから、昔の自分を信用した方がいい結果を生むみたい。ちなみに当方の場合、各研究テーマでひとつだけ共通撤収条件があって、それは5年間以上は続けないこと。もちろん研究と時間は独立ですが、一方で一人の研究者が研究できる時間は有限ですから、やっぱり時間的制限は必要だと思います。

あとは研究テーマをはじめるときは、その研究テーマの仮説を厳密に定義しておくことでしょうか。研究テーマは失敗することがあるわけで、重要なことは失敗を早めに気づいて方向転換すること。仮説に応じて研究内容を決めているのに、仮説をあいまいに定義しておくと、まわりの状況が変わると、その状況変化に仮説をあわせてしまう。その結果、仮説と研究内容が乖離して、なんのための研究なのかがわからなくなる。だから仮説はなるべく厳密に定義をして、仮説の不備がすぐに気づくようにしておくことでしょうかね。当たり前ですが、仮説を変えるときは研究内容も変わることになりますね。柔軟性を大切だけど、変えるときは変える対象に依存する部分も変えないとダメですからね。

2012年5月23日

取材×3件と来客4組。というわけで時間が細切れ状態でしたが、懸案の書類が進んだのでよしとしましょう。

2012年5月22日

Hadoopとバッチ処理の親和性が話題になりますが、単にHadoopの実行粒度がバッチ向きとかいうこともありますが、個人的には、いまのコンピュータの生い立ちに起因すると思っています。バッチ処理というとメインフレーム、メインフレームというとIBMなのですが、そのIBMの前身は、アメリカ合衆国国勢調査局の技術職員だったハーマン・ホレリスが発明したパンチカードマシンを製造販売するタビュレーティング・マシンという会社。ホレリスは国勢調査局時代(1880年)、国勢調査の集計を手作業で実施しており、10年ほどかかる膨大な作業だったそうです。その後、彼はMITで機械工学科で学んでいるときに、その国勢調査の集計を高速化する方法として、パンチカードマシンを発明しました。それを米国勢調査局を採用して、1890年の国勢� ��査の集計は2年間とかからずに終わったそうです。

パンチカードマシンによる国勢調査では、氏名、年齢、住居種別、人種、肌色、性別などの情報がコード化されてパンチカードに格納されており、それぞれの項目毎にソートされて、それぞれを集計していきました。さてHadoop、正しくいうとそのHadoopの元となったMapReduceによる集計ですが、データはキーと値の組で扱われますが、キー毎にまとめて、それぞれを集計していきます。つまりやっていることはほとんど同じなのです。パンチカードマシンによる国勢調査は保健管理や社員管理に使われることになりました。そしてパンチカードマシンは電子化されて、その後のメインフレームになり、いまのコンピュータにつながっていきます。

何をいいたいのかというと、Hadoopによる集計処理というのは、バッチ処理の原型に近いわけで、Hadoopがバッチ処理の置き換えができるのは当然だといえます。それから米国の国勢調査は近代の国勢調査のさきがけでしたして、おそらく人類史上の最初のビッグデータだったと思われます。なお、ある講演でホレリスのパンチカードマシンを例にMapReduceの説明したことがありますが、見事にすべりました。というのはホレリスの名前はもちろん、パンチカードマシンを見たことのない方がほとんどでしたので。

それから本「IDの秘密」には「国勢調査、ID、そしてビッグデータ」という幻の章があったのですが、これはホレリスとパンチカードマシンがマイナーなことに気づいたことが大きいのですが、タビュレーティング・マシン社のその後の会社の方に書いていいか打診したら、強く拒否されたこと(拒否理由は話せないとのことでしたが、もしかするとナチスがパンチカードマシンを使っていたという噂に関係があるのかなぁ)、ページ数の問題から削除となりました。

2012年5月21日

出張疲れが残っていますが、午前中は慶大の大学院の授業。先週は授業前に雑談を話したのですが、クレームを付けられる。ということで授業の本筋だけを話す。授業で話す内容や技術が社会でどのように使われているのか、この授業は計算モデルなのですが、ソフトウェア開発やSIなどで使われることが多いので、企業におけるソフトウェア開発が最近どのような状況で、その中で計算モデルがどのように使われているかは話しておいた方がいいと思って話したのですが、この大学の学生さんは本筋以外のことは望まないようですし、特に実学的な話題は一切不要とのこと。それに情報系が専門でなくても、SI屋さんに就職する方の比率は結構高いはずで、計算モデルの授業でなくても関係あるはずだけどね。このあたりは大学のカラー というか、生徒気質が出ますね。なかなか興味深い。ただ、授業の本筋だけならば書物を読めばいいわけで、授業に出なくてもいいのにね。

2012年5月20日

帰国。成田空港は入国審査場はガラガラなのに、手荷物受取状は劇混み。どうなっているのやら。

2012年5月19日

さて帰国のために移動。まずはマドリッド空港からルフトハンザのミュンヘン行き。それから全日空の成田行き。往路は運良くプレミアムエコノミーにアップグレードしてくれましたが、復路はエコノミー。問題はミュンヘン便は古い機体だからエコノミー席にシート電源がないこと。いろいろお仕事しないといけないので、辛いところ。それにしてもマドリッドは35度の日があったり、今日は昼だというのに15度。すごい温度差でした。

バリトン歌手のDietrich Fischer-Dieskau氏が18日に亡くなったそうですね。実は学会会場の行き帰りに訊いていたのは彼が歌うSchubertの冬の旅でした。Fischer-Dieskau氏は最も好きな男性歌手でしたし、NHK教育テレビで「シューベルト歌う」という番組で講師役を勤めたときは、シューベルトを歌うわけでもないの毎週欠かさずにみていたり。冥福を祈りたいです。

2012年5月18日

国際会議の2日目。なんというか数式がお好きなコミュニティの会議ですね。いきなり数式の説明から始まって、そのまま数式でおわるという状態。それでもいいのですが、ちょっと分野が違うと質疑も、セッション後の議論も絡みようがない。さて会議は昼過ぎにおわって、30分弱でいけるセゴビアにいってみる。

ところで、一昨日の続きですが、スペインから学ぶべきことは多い。例えばスペインは全量買い取り制度(FIT)による太陽光発電の拡大したけど、結局、財政負担急増による取止めで失速。日本も全量買い取り制度が始まりますが、同じ展開になりそう。所詮、補助金に頼った事業は長続きしないし、エコポイント制度に代表されるように補助金が終わったときの反動が大きいですから(世界的にみて、FITを導入して、うまくいった国はそもそもあったのかという感じ。もちろん大失敗した国はいっぱい)。

先日のスペインの地方分権にしても、重複が多くなって無駄が増える、つまり財政負担は増える。それに法人税などにより、自治体間の財源の格差は広がりますし、それを調整する制度を作ったり、既存の地方交付金と変わらない。それとスペインでは地方分権に踏み出す以前から、自治体間で債務状況は違ったそうで、返済どころか、利子負担で財政破綻するリスクもあります。

そして何よりもスペインの地方分権で学ぶことは、一度、地方分権に舵を切ったら、どんな問題が起きても、元に戻すことは非常に難しいということ。実際、スペイン政府は1970年代後半の地方自治制度によって、地方に移譲した権限を中央政府に戻すことを提案していますが、中央政府のお膝元であるマドリッド州知事まで反対しているそうです。中央政府の権限が、役所だけでなく、多方面で既得権益化しているのと同じで、その権限を地方に委譲すれば、地方自治体と地元の一部で既得権益化がおきてくるわけで、元に戻すことは不可能に近いはず。仮に地方分権を進めるにしても、スペインの事例を学んで、失敗しても後戻りはできないことを肝に銘じてほしいところ。

2012年5月17日

国際会議(EAIS'2012)で発表。開催場所の大学の関係者に頼まれたので投稿したけど、学習系、それもその定式化がお好きなコミュニティ。他の発表は数式ばかりで、何に使うのかを説明しない発表が多い。それと関係者が国際会議慣れしていないというか、会議委員長の挨拶から外していて、なんというか。夜はバンケットだったのですが、なんと会場はリアルマドリードのホームスタジアム内のレストラン。

2012年5月16日

今日は代休日ということで、トレドに行ってみる。最後にマドリッドに来てから、1ヶ月半弱だし、どうせならばちょっと違うところへ。トレドはマドリッドからは列車で30分弱の街ですが、トレドはマドリッドに遷都するまではスペインの首都だった古都。中世で時間が止まったような街でした。

スペインの財政危機が懸念されています。前回の出張を含めると10人以上のスペイン人に財政危機問題を訊くのですが、そこで見えてきたのは地方分権の失敗でした。ご存じのようにスペインは大きく分けて、4つのブロックから分かれており、バスクなどは独立運動が起きていますし、バレンシアでは例えばバルセロナで開催された国際会議ではローカル組織委員会が開催地名から、スペインと書かずに、バレンシアと表記したりで、地域毎に向いている方向がばらばら。ということもあって、(スペイン人曰く)1978年の地方自治制度で改革で、スペインは17州それぞれに小国家群となったそうです。例えば首都があるマドリッド周辺は、マドリッド自治州という名称であり、ある種の小国家状態。

地方分権を進めたわけですが、財政効率が悪化した。つまり同じような組織を各州が作るから重複が多く、無駄が多い。日本でも政府集中よりも地方分権がいいという流れですが、地方分権は無駄が多くなります。またどうしても部分最適化されてしまって、それが全体最適化につながらず、国力を落とすことも多い。

さてスペインの話を戻すと、数人のスペイン人が共通して話すのは、スペインの財政危機を解消する最重要条件のひとつは、各州から権限を取り上げることだそうです。もちろん、これだけでは解決できるとは限らないのですが、この問題を残していると財政危機リスクはなくならない。ただ、再集権化はバスクなどの独立志向の強い地域の独立運動を引き起こし、内戦化しかねないというとのこと。実際、1930年代のスペイン内戦という不幸な歴史がある国なので、冗談ではなさそう。

2012年5月15日

全日空でミュンヘン、それからルフトハンザでマドリッド。ミュンヘン便はプレミアムエコノミーにアップグレードしてもらえた。全日空は早割などの安価チケットの乗客は滅多にアップグレードしてくれないので助かります。早割でアップグレードしてもらったのは昨年の8月以来かも。全日空は昨年、プレミアムエコノミーにアップグレードしてもらったけど、結局、機体変更で強制ダウングレードされたことまであったり(しかも説明も一切なかったし)。

2012年5月14日

慶大の大学院の授業。毎年訊かれるのは何枚の課題レポートを書けば単位をもらえるのかという質問。課題を出す前から訊かれてもという気もしますが、もちろん悪意はないのでしょうが、必要以上のことはしたくないというの打算が見え隠れするんですよね。買い物をするのではないのですから、一番安い値段で買いたいと思われても困るし、または就職活動でいうならば自分の価値を一番高く買ってくれるところを探すにしても、まずは自分の価値を高めることの方が先だと思ったり。

夜は勤務先の大学院。さすがにレポート枚数的な質問はないのですが、講義が英語なので10倍ぐらい疲れるんですよね。

2012年5月13日

職場の同僚というか、学生時代の同じ研究室の出身者というか、至近の住人というか、ともかく大切な方の結婚式&披露宴。それにしても縁がありますね。だいたい同じ研究室の出身者で同じ職場は彼しかいなかったのに、期せずして住んでいるところも至近となったわけで。いずれにしても、本当におめでとう。そしてとってもいい結婚式&披露宴でした。ありがとう。それからお土産のチーズケーキおいしかったです。

2012年5月12日

今日は休日出勤はなし。いろいろぐったり。でもいろいろ書類作り。ここ数年は、いかに時間を作るのかが課題になってきている感じですね。ただ、時間を作るためには最終的には何かを切らないとダメなわけで、何を切るかも悩ましい。それと研究者は考えることが仕事ですから、集中して考える時間を作ることが重要課題。それと専門となるコンピュータサイエンスの現状は、現実世界の課題を解決することに注力するしかなく、実アプリケーションの要求を知っている研究者が有利というか、本質的に新しい研究課題が減った現状では、実システムの課題を知って、それを解くことが重要となるわけで、アカデミアの研究者でも実アプリケーションの要求を知れる立場の研究者とそうでないはない研究者の差は埋めようないほど広� ��っていいるのが現状で、いかに実アプリケーションの要求を知るための手段を作るかが重要。逆に言うと実アプリケーションの要求を知り得ないと確実に先がない状態。ただ、当の本人はそれに気づけているかは別問題なわけですが。

2012年5月11日

ビックカメラがコジマを買収。びっくり。それでも売上規模ではヤマダの半分。それもびっくり。でも一番、びっくりしたのは家電量販店が家電量販店を買収したことだったり。駅前や郊外に大きな店を構えて集客するより、通販に力を入れるべきだと思うし、通販業者または通販に強い業者を買収すればいいのにと、素人的には思うのですがね。

2012年5月10日

先月、不愉快な思いをした某大手SI事業者さん主催のセミナーですが、なんと再び講演を頼まれる。中に入った業者さんの問題とはいえ、もうなんというか、さすがにびっくり。こちらも不作法を水に流して、大人の対応したのですから、最低限の大人の対応はしてほしいと思ったり。

2012年5月9日

RFIDの講演。講演資料の提出締め切りが4月上旬。どんな資料を作ったのか、すっかり忘れており、あわてて復習。PowerPointの次のスライドを表示する機能があったから助かったのですがね。ちなみに会場はビッグサイトでは一番大きい会議会場、1000人収容だそうです。実際の客入りは600〜700人ぐらいの客入りでしょうか。

当方のあとは商社の方がアパレルにおけるRFIDタグ活用事例を話されたのですが、アパレルとRFIDタグは、5年ぐらい前に大型倒産した某ITベンダーの一件があり(ここ10年間でIT業界の倒産では負債が一番大きい?)、あまり触れたくない組み合わせ。もちろん、その商社は無関係なのですが、あの倒産にはいろいろ噂もあり、RFID業界及びIT業界関係者だったら冷や汗ものだったはず。主催社は知らずに企画したのでしょうが、もし知っててやったならば、いわゆる炎上マーケティングよりも怖いです。

2012年5月8日

昼間はひたすら雑用。夜は某セミナー。Facebookの話、なんというか、残念というか、さすがに途中で帰ろうかと思いました。ただ、同社のアーキテクチャは知っておいた方がいいので、Facebookのアーキテクチャー図を描いておきます(研究室向けには説明していたりするのです)。あくまでも当方が想像したアーキテクチャなので、正しいかはまったくの謎。

2012年6月1日金曜日


ホロコースト(holocaust)は、元来はユダヤ教の宗教用語である燔祭(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で[1]、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった[2]。現在では、第二次世界大戦中のドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。英語では、前者2種の意を普通名詞 (holocaust) とし、後者を定冠詞をつけて固有名詞(the Holocaust)として区別している。動詞としても使用されることがある。

[編集] 語源および語の使用の変遷

ホロコーストは「全部 (ὅλος holos)」+「焼く (καυστός kaustos)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、元来は、古代ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える犠牲、「丸焼きの供物」、すなわち燔祭を意味していた[3]。またここから派生した意味に「火災による惨事」があり、一般的にはこちらの方が主に使われていた。のち転じて、全焼死や大虐殺を意味するようになった[4]

ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」であり、「焼き尽くす捧げもの」を意味した[5]

日本では、永井隆が長崎への原爆投下を「神の大きな御摂理によってもたらされた」とし、原爆投下を「大いなる燔祭(en:Holocaust (sacrifice))」と解釈したこと[6]が論評されている(浦上燔祭説参照)。

[編集] ショア

ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」だが、特に「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合は"惨事"を意味するショア (השואה) が用いられる。かつて英語では「ジェノサイド」などが用語として一般的だったが、1978年アメリカNBC系列で放映された長編テレビドラマ『ホロコースト 戦争と家族』("Holocaust")が話題となり、流行語となったこの語が「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。イスラエルでタカ派リクード政権が発足した後、1985年にはイスラエル政府の資金提供を受けた映画『ショア』が制作され、日本では1995年に上映されて以降、「ショア」という用語が普及した。

[編集] ドイツによるホロコースト

1930年代から1940年代にかけてのナチス政権下のドイツ国内及び第二次世界大戦中ドイツに占領されたヨーロッパの国々において、ユダヤ系市民は差別迫害を受けた。こうした第二次世界大戦中のユダヤ人の歴史について、戦後、ニュルンベルク裁判は、「ドイツはユダヤ系市民をただ、ユダヤ人であるというだけの理由で絶滅しようと計画した」と事実認定し、これを「人道に対する罪」と看做した。更に、同裁判とそれに続いて行なわれた西ドイツでの裁判その他において、そうした民族絶滅計画の手段として、ドイツは収容所に処刑用ガス室を作り、一酸化炭素や青酸ガスによってユダヤ人の大量殺人を行なった、等の事実認定がなされた。

これらの戦後の法廷での事実認定を基に、ジェラルド・ライトリンガー(ドイツ語版、英語版)、ラウル・ヒルバーグ、ウィリアム・シャイラー、等の歴史家が、体系的な記述を行ない、この時代のユダヤ人の運命についての通説が確立された。それが、1970年代後半、アメリカで、テレビドラマ『ホロコースト 戦争と家族』が製作され、ドイツを含む多くの国々で放送された結果、第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人迫害、特に民族絶滅政策の実行の過程を「ホロコースト」と呼ぶことが定着した。(ただし、ユダヤ教徒の中には、神聖な儀式である「ホロコースト」の語をドイツのユダヤ人迫害を指す言葉として使用することを批判する声もある。)

「ホロコースト」という名称は、大戦中から大戦後暫くの間、ユダヤ人の間で、「ドイツはユダヤ人を生きたまま火の中に投げ入れて焼き殺している」との言説が広く信じられたことを起源に持つ。これは、エリ・ヴィーゼルの回想録『夜』で確認出来るが、戦後長い間、「ホロコースト」という言葉は「火事」の意味でしか一般には通用しておらず、例えばアルフレッド・ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』では劇中タンクローリーの炎上事故を伝える新聞の見出しで「Holocaust」という言葉が使われていた。現在は、教科書にも載っているが、『夜と霧』などの旧来から存在する書籍に「ホロコースト」と言う語が見られないのは、こうした事情による。

通説によれば、ドイツによるホロコーストによって殺害されたユダヤ人は600万人以上とされている。それ以外にもロマ人、スラブ民族(主に戦争捕虜)、共産主義者、ポーランド人、身体障害者、同性愛者なども迫害され大量に殺害されたとされるが、「ホロコースト」と言う語は、ユダヤ人を対象にした大量殺害を指して使われるのが普通で、ユダヤ人の中には、この語を他の民族にも拡大して使用することに、反発する個人、団体がある。

また、それらの行為を認定したニュルンベルク裁判自体が近代刑法における原則である法の不遡及を守らず、被告の控訴も認めず処刑し、中立的であるはずの裁判官が全員連合国から選出され、また、本来は全員が枢軸国側から選出されるはずの弁護団も連合国側から選出されるなど、最初から恣意的な裁判審理手続きを定めた裁判は、近代法に基づく裁判とは完全にかけ離れており、現在のドイツ政府ですら、ニュルンベルク裁判を認めるいかなる条約も結んでいない。こうしたやり方の認定に果たしてどの程度信憑性があるのか、歴史学者の間で議論が続けられている。

こうした歴史について、ドイツがユダヤ人を差別迫害したこと自体は認めながら、通説の見解に疑問を投げ掛ける者もあるが、以下には、通説の見解を要約して述べることとする。(通説への異論については、ホロコースト否認の項を参照のこと。)

まず、ホロコーストの犠牲者の数には諸説あるが、900万から1100万人に上るとも考えられている。

ナチス政権下のドイツによる迫害と殺戮は段階的に行われた。まず、第二次世界大戦の開始より数年前に、ドイツ国内でユダヤ人を社会から除外する法律が制定された。次に強制収容所が建設され、ほぼ全ての犠牲者はそこで死ぬまで強制労働をさせられている。ドイツは東ヨーロッパで新たな領土を占領するたびに、アインザッツグルッペン(de:Einsatzgruppen)と呼ばれる特殊機動隊を使ってユダヤ人や抵抗勢力を公開銃殺刑にしている。

現在のドイツ、フランス、ポーランド、ポルトガル、チェコなどのヨーロッパ諸国において、ホロコーストの否定は刑事罰の対象になる。特に加害者であるドイツでは3ヶ月以上5年以下の懲役刑、被害が最も大きかったポーランドでは罰金または3年以下の懲役刑になるなど、社会的にも最大のタブーとされている。ポーランドではユダヤ人総人口の9割がホロコーストで死滅したとされている。

その一方で、イスラエルと対立する一部のイスラム世界等、直接ホロコーストに関わっていない国や地域においては、「第二次世界大戦中に米英とシオニストの流したプロパガンダに過ぎない」とこれを認めないこともある。当時の公式文書や大量殺戮のためのガス室が発見されていないこと。また、ニュルンベルク裁判でのヘルマン・ゲーリング以下の被告が、虐殺があったことは間違いないだろうが自分たちは大量虐殺に関与していないし、そんな事実も知らなかった。として無罪を主張していたことなどが傍証として挙げられている。特にヒトラーに次ぐ国家的地位にいたヘルマン・ゲーリング国家元帥による「ヒトラー自身もこのような虐殺を知らなかった。」とのニュルンベルク裁判の証言が存在する。

[編集] ドイツによる「ユダヤ人問題の解決」政策

ナチス党政権下のドイツはとくにユダヤ人の殲滅政策 (die Endlösung der Judenfrage 「ユダヤ人問題の根本解決」または die Reinigung 「民族浄化」)を重要視して、約500万から700万人のユダヤ人を虐殺したとされるが、「絶滅」が戦前から「計画」されていた目的であるのか、戦争突入後の状況変化による非計画的なものであったのかは、研究者によって意見が分かれる。

1938年11月にドイツ全土とオーストリアでおきた水晶の夜 (Kristallnacht) 事件、1939年から1941年に優生学思想に基づいて実行された安楽死政策 T4作戦をホロコーストの始まりと定義する歴史家は多い[要出典]。その後、第二次世界大戦の戦局の悪化に伴いドイツは絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。

その一方で、「劣等民族」または「不穏分子」としてシンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人(300万人のキリスト教徒と300万人のユダヤ人)、セルビア人(50万から120万人)、ロシア人、スラブ人、知的障害者、精神病者、同性愛者、黒人、エホバの証人、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされる。ユダヤ人の虐殺のみをもってホロコーストと呼ぶ者もいるが、実際にドイツによって殺害されたこれらマイノリティーの合計は、900万人とも1100 万人[要出典]とも言われる。

2012年5月19日土曜日


トップページ ≫ 死とは

 自殺を考えている人に対し、死について簡潔に説明します。

 死とは霊と肉体との分離です。一般的な死とは、霊がこの世(物質界)での役目を終え、肉体を脱ぎ捨ててあの世(霊界・霊的世界)に帰るということです。実は頭を悩ませるほどのことではありません。私たちは本来霊的な存在で、生まれる前に人生計画を立て、それを果たすためにこの世に誕生し、その計画が完了した者から順に死という関門を越えて霊界に帰っていくのです。そして霊界でも引き続き自我と個性とを保ちながら新たな生活を始めていきます。霊はこの世では肉体に、あの世では霊体(幽体)に宿って活動することになります。

 私たちは本来姿形を持たないエネルギー体と言ってもよく、それを心霊学では"霊"あるいは"霊魂"、または"霊的存在"という呼び方をしています。この世で活動している私たちも元々はこのエネルギー体のようなもの(霊)なのですが、この物質界で様々な体験を積むために今は肉体器官に宿っている最中ということです。肉体が自分の本質ではなく、それが自分という意識を生じさせている訳ではないのです。肉体は単に霊的存在である私たちに、この世での活動を可能にさせてくれるための媒体でしかありません。ですから、たとえ自殺で肉体的生命を絶ったとしても、自分という存在を消し去ることはできません。それ故、自殺は自らが抱える問題を解決する手段には決してなり得ないのです。

 私たちがこの世に生まれ、人生を送る理由は"霊的存在としての自分自身を成熟・完成させるため"と言えます。喜怒哀楽・艱難辛苦などの様々な体験を通して霊としての経験値を積み、霊的成長・進化を図るのです。霊にとってこの世を生きることは大きな挑戦でもあります。私たちは自らにそれを課したのです。ですから自殺は他の誰でもない、自分自身に負けるということになります。

トップページ ≫ 死とは ≫ 死の定義

2012年5月17日木曜日


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2012年5月15日火曜日


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From Wikipedia, the free encyclopedia

2012年5月14日月曜日


話題としては、4月7日のものなので、ちょっと古いですが気になったもので・・・

アメリカのテキサス州当局は、西部エルドラド近郊で、「一夫多妻制」を実践するモルモン教分派「末日聖徒イエス・キリスト教会原理派」の農場を性的虐待容疑で捜索したそうです。

そして、女性や少女ら計183人を保護したそうです。

町などで、スーツ姿でヘルメットをかぶり、自転車に乗る2人組みの外人を見たことがありませんか?

その人たちは、モルモン教です。

しかし、今回の記事のモルモン教とは違います

また、今のモルモン教は一夫多妻制を廃止しています。

私の、モルモン教との出会い。

祭りの日です、外人がチラシを配っていました。

そのチラシをみると、無料英会話の案内でした。

無料!

私の大好きな言葉です。

もちろん行きました。

そこにいた外人が、モルモン教でした。

ところで、日本では、オウムの事件以来、今まで以上に宗教とは、うさんくさいものと認識されて入るのでは?

私も、そのように思っていました。

もちろん、その英会話もモルモン教布教の一環です。

と言っても、強烈な勧誘はありませんでした。

かなり親しくなって、こそっと

「教会に遊びにこない?」

って誘われるぐらいです。

場合によったら、まったく勧誘はないかも知れません。

ま~、私も、いろいろなモルモン教信者を見たわけではないので、これが絶対とはいえませんが・・・

2012年5月12日土曜日


この「ヨハネの福音書21章の黙想」は、もともと私が西船橋教会に招聘された翌年(前任牧師・有賀寿先生の下で伝道師をしていた頃)、イースターの日(1982年4月11日)から7月4日まで13回にわたって週報に連載したものです。(さらに言えば、オリジナルはもっと古く、20代の半ばに母教会の機関紙に掲載した「小説風注解」(!)というのがあります。)

今回、日曜礼拝で90回以上にわたって語り続けてきた「ヨハネの福音書連続講解説教」の一環として、1998年7月第1日曜日から9月中旬まで、10数週かけて21章を説教するにあたって、かつての原稿に手を加えて、同時並行的に週報に掲載しました。一つにはインターネット時代を迎えて、ホームページに掲載できるように原稿を電子化しておきたい、という理由からです。同時に、(週報のスケジュールの関係で毎週掲載するわけにはいきませんが)7月からの日曜礼拝説教と週報連載とが多少後先(あとさき)しながらもほぼ同時進行することにより、私としては珍しく説教アウトラインめいたもの(完全に同じではありません)を公開しながら毎週のお話をすることになりました。

一つの読み物としてお楽しみくださり、「聖書を黙想する」という福音派クリスチャンに欠けがちな聖書理解の一助としてください。

「復活の主」

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、 もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。 (ヨハネの福音書21:1)

第2次大戦中、連合軍がナチス・ドイツ軍の必死の抵抗に阻まれながらもヨーロッパに上陸、ベルリンに向けて侵攻を開始した時、全世界は、戦争は事実上終結したことを知りました。

もちろん、その後何か月にもわたり激しい戦いは続きました。数々の犠牲と空襲、殺害、飢えと寒さと破壊と悲しみは繰り返されました。けれども終わりは確実に近づいていたのです。この事実を疑う者は誰一人――おそらく狂気のヒットラーを除いては――いませんでした。幕は下り始めていました。恐怖のショーは終わったのです。

今、私たちクリスチャンが置かれている状況はそのようなものです。

主イエスが、堅く閉ざされた墓の封印を打ち破られた時、勝利は決定付けられました。主イエスは「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださ」(ヘブル2:14〜15)ったのです。イエスは「すでに世に勝」(ヨハネ16:33)たれました。そして私たちクリスチャンを「導いてキリストによる勝利の行列に加え」(第二コリント2:14)てくださっています。私たちは今、復活の主イエス・キリストと共に勝利の行進を続けているのです。

しかし、自分が勝利の軍団の一員であるとは思えない時があります。「自分」というレベルの局地戦ではひたすら敗走を続け、孤独と無力感とを味わわされることがあります。

けれどもその時でも、大局を見失ってはいけません。今、自分の限りある目で全体像を把握できないにしても、私たちはこれから死闘を繰り広げなければならないのではなく、勝利の行進をしているのです。そのことを信じ、認めなければなりません。ですからクリスチャンの戦いは、本質的に<信仰の戦い>です。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(第一ヨハネ5:4)。旧約聖書の信仰者たちについて言えば、彼らは確かに悲しみの人でしたが、同時に、彼らはまた、勝利を信じて疑わない信仰の勇者たちでした(ヘブル11章)。

今、復活の主イエスはガリラヤ湖畔に立って、再び弟子たちの前に――特にペテロとヨハネの前に――そのお姿を現そうとしておられます。弟子たちの問題と弱さを取り扱い、解決し、信仰の勇者として立たせ、個人戦での勝利者とするために、です。

「漁火(いさりび)」

「シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』…」(ヨハネの福音書21:2〜3)

首都エルサレムの喧騒の中で焦燥の日々を過ごしたばかりの弟子たちにとって、花々の美しく咲き乱れる故郷ガリラヤの春はひたすら美しく、心なごませるものでした。

弟子たちはそこで、主イエスの再びおいでくださるのを待っていました。自分たちのいのちが危ういエルサレムにおいてではなく、ガリラヤで、主は新しい使命を自分たちに与えてくださるはずでした。

主イエスの訪れを待つ数日間、ペテロの心には解決されていない一つの問題が残っていました。あの事件に主はまだ触れておられなかったのです。いつか必ずその話題が出てくることは分かっていました。主イエスが逮捕され、裁判にかけられた夜、「イエスなど知らない」とのろいのことばを口にしてまで自分の身の安全を図った、あの裏切りの件の解決無しに新しい使命が与えられることはありそうに思えなかったからです。

主が何と言われるか――きっと赦してくださるであろうにしろ、どう扱われるか――、患者が医者を信頼して身を委ねるにしても、未知の治療法に不安がないわけではない、そうした気持ちに似た、重苦しい感情に捕らわれたままで、ある日の夕暮れ、食事を終えたペテロは、ひとり湖のほとりにたたずみました。岸辺のここかしこに、夜の漁に出て行く小舟の姿が見えます。

それは、かつての自分の世界でした。親の代からの漁師としてその世界で精一杯生きていた自分が、召されて新しい世界に入ったものの、結果は無残でした。今一度あわれみにより新しい使命に召されたとしても再び失敗しない保証はありません。もう一度、自分の力を確認しておきたい…。漁に出て、自分の専門の領域で自分の力を確認しておきたい…。

「私たちもいっしょに行きましょう」――いつしかペテロのかたわらに来ていた他の弟子たちも思いは同じでした。

やがて、彼らは舟を出します。

弟子たちが漁に行ったことについて、伝道者としての生活をやめて自分たちの元々の職業に戻ろうとしていたのだ、いや、その日の食糧を求めて漁に行ったに過ぎないのだ、といった議論がなされます。

けれども、このどちらの見解も、向かうべき方向を見失った議論です。弟子たちは、自分たちの最も得意な領域で自分たちの力を(それはとりもなおさず自分という存在を)確認したかったのです。みじめで無力な失敗者として自分たちの慕う主イエスに会うのではなく、それ以前に何とかして何者かになっておきたかったのです。

夜の湖にひとつ、漁火が増えました。網を打ち、懐かしい獲物の手応えを感じ取ろうとし、…「しかし、その夜は何もとれなかった」。

自分の無力さを認めず神の前で何者かになろうとする試みは、失敗せざ るを得ないのです。

「夜明け」

「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」 (ヨハネの福音書21:4)

自分たちの専門分野での失敗はみじめです。夜が明け、漁に最適の時間が過ぎ去り、自分たちに収獲は何もなかったと分かった時、弟子たちは無言のまま舟を岸へと向け始めました。

こんなことはよくあったことだ、昔だっていつも大漁というわけにはいかなかった、収獲のない日はいくらでもあった、――そういくら自分に言い聞かせても、それが何の説得力も持っていないことは、弟子たち自身がよく分かっていました。漁はもはや彼らの世界ではなかったのです。

過去の世界には固く戸を閉ざされ、新しい世界には不安とおののきと挫折感を味わわされたままで、ペテロは舟の片隅にうずくまっていました。

水しぶきとも汗ともつかないものが彼の裸のからだをぬらし、次第に明るさを増してくる四方の風景さえ、もはや心休まる故郷の風景ではなく、見知らぬ異邦の世界とも思えるものでした。

その時、近づきつつある岸の薄闇の中に淡く一つの人影が浮かびました。

その人影から声が発せられます、「若者たちよ、何か魚(さかな)はあるのか」(5節)。「若者たちよ(パイディア)」(新改訳では「子どもたちよ」)という語は、イエスが「子よ」と親しく呼びかけてくださる時のことば(マタイ9:2等々)とは少し違って、労働に従事する者への呼びかけの意味もあります。

2012年5月10日木曜日


十戒』(じっかい、The Ten Commandments)は、1956年のアメリカ映画。歴史映画。

「旧約聖書」の「出エジプト記」を原作として制作されたスペクタクル映画。セシル・B・デミル監督。出演はチャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーなど。海が割れ、その中をモーセ一行が進むクライマックスシーンはあまりに有名。上映時間232分。

[編集] ストーリー


注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。免責事項もお読みください。

2012年5月9日水曜日


「シリウスに向かって飛べ!」
言うまでもなく、スタジオジブリの名作『風の谷のナウシカ』の有名なセリフです。

シリウスは女神イシスの星であり、
イシスはまた、ナウシカのように青き衣を纏った大地の女神でした。

「その者、青き衣を纏いて、金色の野に降り立つべし、失われた大地との絆を結び、
ついに人々を清浄の地へ導かん」

宮崎作品のどれもが、密儀の教えや哲学がテーマとなっている、
それが宮崎作品を見続けてきた感想です。

清浄なるものとは密儀のイニシエーションを受けている者を言い、
清浄ではない、つまり不浄なる者とはわれわれ非参入者のことを言う。
聖書の創造主を悪魔とするグノーシス派は、自分たちを清浄なる者と呼んだ。
清浄の地とは、神の意思によって浄化されたこの地上世界、
聖書で言う「洪水後の世界」である。

崖の上のポニョとはいったい何のことか、
我々は一度よく考えてみるべきだろう。

以前にも書いたが、
ポニョの制作風景をまとめたドキュメント番組において宮崎駿監督が
「俺の物だとか、誰の土地だとか、いっそ洪水で全部流れてしまえば清々する」
などと言っていたことを、私は思い起こしてしまう。

確かに、欲深い現代人には耳の痛い話だが、
洪水後の日本では聞き流すわけにも行かぬ。
私は当初からこの発言を問題視していたが、
それから少し時間が経ち、本当に津波が日本を襲うとは思ってもいなかった。
宗教研究家としては、この事態を予知できなかったことは恥ずべきことだ。
そして、津波が起こることを予知していた人たちがいるということについて考えている。

古代エジプトやギリシャでたいへんな信仰を集めた、
イシス=デメーテル・コレーの儀式の聖地エレウーシスは、
キリスト教徒によって破壊された。
その破壊を先導したのはキリスト教の聖職者達だった。

地球海世界が軍事力によってキリスト教一色に染め上げられてゆく中、
イシス=デメーテル教徒らが、グノーシス派を形成していったと考えることは、
ごく自然なことだ。
キリスト教はローマ帝国やゲルマン民族の軍事力を利用し、
異教徒たちを抹殺していった。

レアはクロノスとひそかに契りあいましたが、
それが太陽神の知るところとなり、彼はレアの呪いをかけて、
いかなる月にもいかなる年にも子を産むことなかるべし、と申しました。

ところがこのレアをヘルメスが愛して交わり、
それから月と将棋をさして勝ち、
彼女の輝きから七十分の一を取り上げ、
その取り上げた七十分の一を五日として集めて、
360日に付け足しました。

この付け足された五日を、今日のエジプト人は閏日と呼び、
神々の誕生日として祝っています。

第一日目にはオシリスが生まれ、その誕生と同時に声が響き、
「万物の主なる神、光の中に進みたもう」、と言ったと申します。
テバイで水汲みをしていたパミュレという女が、
ゼウスの神殿からこの声が響いてくるのを聞いた、という人もあります。

この言い伝えですと、その声は
「大いなる王にして恵みの施し手オシリス、今生まれたまいぬ」、
と呼ばわったということです
そこでパミュレは、クロノスが委ねてくれたことでもあるし、オシリスを育てました。

2012年5月8日火曜日


7月 10, 2011

聖書:創世記30:25-34

導入 富と信仰

 

主イエスは空腹の時に悪魔の誘惑を受けて、神の子なら石をパンに変えてみろと言われた時、こう答えました。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』

生活に必要とされるものをひとつひとつはぎ取られていったとしても、最後の最後で永遠にいのちを保ってくれるのは神のことばだけです。

とは言っても、私たちは普通にこの世界に暮らし、食べるものも着る物も住む家も手に入れなければなりませんし、そのためにこの世の富をささやかではあっても手に入れるために働かなければなりません。

特に長い不況と言われ、さらに震災の影響でこの当たりでは仕事の時間や休みのサイクルも大きく変わって、労働環境は悪くなっているようです。

そういう中で私たちは何とか生き延びようと必死になるわけですが、同時に信仰者として「人はパンだけで生きるのではない」ということをどのように、具体的に実践できるのかと問いかけられています。

今日の箇所でもヤコブは持ち前の計算高さを大いに発揮して故郷に帰るための資金作りにいそしむワケですが、いったいどんなことを学び取ることができるでしょうか。彼の富を手に入れる計算高さと信仰とはどう関係していたのでしょうか。

 

 

1 腹の探り合い

 

嫁たちの醜くも哀しい競争によって大家族となったヤコブは、とっくにラバンとの契約期間が過ぎていました。

ラケルと結婚するために7年働き、結婚式を挙げてみれば与えられたのは姉のレア。それでラケルも妻としてもらうかわりにさらに7年間追加でラバンに仕えることになっていました。

ヤコブにしてみれば、十分すぎるほど仕えて来たはずです。何しろ、これまでの働きは妻を得るためのものなので、報酬らしい報酬は受け取っていませんでした。普通ならヤコブほどの働きをしたらとっくに自分の家を持っていてもおかしくはないほどに、彼が生み出した富は莫大なものでした。

それでヤコブはラバンにここを離れて故郷に帰りたいと申しでたのです。

それは当然の願いです。ラバンのずるいやり方に辟易としていたということもあるでしょうし、そもそもここにずっといるつもりではなく、いずれは故郷に帰るつもりで旅立ったのです。それ以上に、神ご自身がヤコブを祝福し、アブラハムへの約束の後継者として必ず連れ戻すと言って下さったのです。

ヤコブはかなり強い口調でラバンに要求したことが、もとの言葉の使い方から判ります。ラバンの婿養子、あるいはしもべという立場でしたから、ラバンの許可は必要であったものの、決意は固かったのです。

ヤコブは家族を連れて故郷に戻るのはこれまでの働きからすれば当然の報酬と主張しています。

一方ラバンは、例によってずるがしこく立ち回ります。

2012年5月6日日曜日


国民日報連載に連載された金圭東牧師の証し                                                   

[2000年7月24日に献げられたヨハン東京教会入堂式のテーブカットの様子]

ヨハン東京キリスト教会(ヨハン早稲田キリスト教会)の入堂式までに至る道のりは正に、主の御業である。

国民日報に連載された金圭東牧師先生の証を掲載する。

「愛する聖徒の皆さん、ついに皆さんの手によって建てられた教会で神様に礼拝を献げられるようになりました。皆さん、これまで大変お疲れさまでした。」「私達も教会ができた」とマイクでも持って日本列島を飛び出して叫びたい心情であった。地上5階、地下1階の教会は、それまで居場所がなく渡り島のようにさまよいながら礼拝を献げた私達を、温かく迎え喜ばしく思っているようであった。

2012年5月5日土曜日


 前回は、有期労働契約の現行制度の概要をお話ししましたが、今回は有期労働契約に関する問題点について説明します。

【有期労働契約の実態と役割】

 有期契約労働者の数は近年増加傾向にあると考えられ、厚生労働省が行った実態調査によれば、有期契約労働者の平均更新回数は5.7回、平均通算勤続年数は3.2年であり、7割程度の事業所が雇止めを行ったことがないとしています。契約更新を11回以上行っている事業所や勤続年数が10年を超える事業所も1割程度あるなど、一時的・臨時的ではない仕事について有期労働契約の反復更新で対応している例も見られます。

 有期労働契約の問題点は、主に労働者の側で、雇用の不安定さ、労働条件の格差、キャリア形成が困難であること等があります。また、雇止めを背景に、労働条件の切下げが容易に行われたり、年休取得等の労働者としての権利行使が阻まれたりする懸念があり、実際にそのようなトラブルも発生しています。使用者側が有期労働契約を反復更新する理由は、契約を打ち切るフリーハンドを確保し、処遇格差を正当化するためではないかとの意見もあります。

2012年5月3日木曜日



1 名前:七難八苦φ ★ 投稿日:2012/02/13(月) 15:13:47.99 ID:???

預言者ムハンマドにツイートして逮捕・送還 サウジの文筆家


(CNN) 簡易投稿サイト「ツイッター」上でイスラム教の預言者ムハンマドに対等に話し掛けるかのような発言をしたとして、サウジアラビア当局から逮捕状が出ている同国の文筆家、ハムザ・カシュガリ氏が12日、滞在先のマレーシアからサウジへ送還された。

マレーシアの国営メディアなどによると、カシュガリ氏は先週のムハンマド生誕祭にあたり、ムハンマドへ向けたツイート(投稿)として「好きな面と嫌いな面がある」「あなたのために祈ることはしない」などと書き込んだ。ツイートはその後、削除されている。

2012年5月1日火曜日


*イスラームとの出会い
イスラームに関しては、わたしもまだムスリマではないし、まだ自分の中でも整理がついてないことが多いです。よってはっきりとした意見もありません。だから他人に偉そうに言えることは何もないなぁと思い、ゆっくり作っていこうと思っています。ごあいさつで書いたことはイスラームをまだ学問的に見ているから言えることなのかもしれません。それにボーン・ムスリムではないのでやはりボーン・ムスリムの考えることや感じることとはかなり違う捉え方をしているのだと思います。

エジプトに住むようになって嫌でも意識しなければならないことがありました。それがイスラームです。1日5回のアザーン(礼拝への呼びかけ)や、アラビア語の言葉そのものにもイスラームが絡んでいます。たとえばアッラーのつくフレーズ の多さですが、アルハムドゥリッラー(アッラーのおかげで)、インシャーアッラー(アッラーが望むなら)、マーシャアッラー(すばらしい)、ビスミッラー(アッラーの御名において)、タワッキル・アラッラー(アッラーに任せなさい)、ワッラーヒ(アッラーに誓って)など、アッラーを使った言葉を今思いつくだけ挙げてみてもこんなにあります。イスラームは人々の生活と密接に関わりあっている宗教なのです。何かを始める前にはビスミッラーと言い、無事に済めばアルハムドゥリッラーと感謝の気持ちを述べる。人に会えばアッサラーム・アレイコム(あなたの上に平安あれ;こんにちは)と言い人と別れるときにはマァッサラーマ(安全とともに;さようなら)と言う。アラビア語を勉強するうちにいつしかわたしもイスラームに興味を示すよ うになりました。ちなみにアッラーとはアラビア語で神(God)を表す名詞に定冠詞のalがついたものであり、特定の神の名前ではありません。日本でときどき耳にする「アッラーの神」という表現は不適切です。

*モスク体験記
幸運なことに日本にもアラブ人の友だちがわりと近くに住んでいるため、モスクに行ってみる?と誘われたときはびっくりしたが行ってみることにした。人生で初めてモスクに入ったのは日本の神戸モスクでした。でもその日は既に礼拝時間は済んでいたので、モスクの中を見学してバシバシ写真を撮っていた。そこへイスラーム関係の本を翻訳しているという外国人男性に会い、なぜモスクに来たのかとか、なぜイスラームに興味を持ったのかとかを聞かれた。そしてイスラミック・センター・ジャパンが発行している冊子を何冊かいただいた。その後それを見ていた日本人女性の方に声をかけられ、今でもイスラームのことをいろいろ教えてもらっています。

2回目のモスクでは一緒に行っているアラブ人の友だちがたくさんの友� �ちと久々に会ったらしく、お互いとても嬉しそうにしていたのが印象的だった。そして一緒にいるわたしにも「アッサラーム・アレイコム!!」と言ってくれた。このとき、ムスリムの団結力は強いなと感じた。礼拝は男性は1階、女性は2階で、そのアラブ人の友だちは男性だったため、別れることに。うそーん!どうしよ、一人だわ…と心細く、おそるおそる2階の礼拝スペースに入った。そのときは外国人女性とその子供、日本人の女性が3人ほどいた。その中の一人がわたしに「アッサラーム・アレイコム!」と言ってくれたのでわたしもおどおどしながら「ワ・アレイコムッサラーム…」と答えた。そのときはまだ今のようにイスラームを自分の中でうまく処理できてなく、アッラーってだれ??と超意味不明なことばっかり考えていた。そ� �ためその日は礼拝はせず、みなさんの礼拝を見学していた。一人めちゃくちゃ緊張していた。

それから何度かモスクには足を運んでいろんな人と知り合った。日本人の方もいらっしゃるし、パキスタン人の女の子とも仲良くなった。初めてわたしが礼拝に参加したのは7,8回目のときだったと思います。その前にエジプトに長く滞在していて、いろんな人にイスラームのことを教えてもらったら、自分でも不思議だったがすんなり受け入れられた。だからお祈りをしたいと思った。それ以前は本ばっかり読んでいて八方ふさがりに陥って煮詰まっていた。でもエジプトに行って見て聞いて感じたイスラームは、わたしの心に直接訴えかけてきたのだと思います。日本に帰ってきてモスク行こう!!と思った。自分でもびっくりした。一緒に モスクに行っているアラブ人の友だちも「マーシャアッラー!!」と大喜びでした。

2012年4月30日月曜日


1A 罪と汚れの清め 13
   1B 偽預言者の除去 1−6
   2B 試される民 7−9
2A 着座される王 14
   1B 高められるエルサレム 1−11
      1C 立たれる主 1−5
      2C すべての王 6−11
   2B 主の宮への参拝 12−21
      1C 敵の間の恐慌 12−15
      2C 仮庵の祭り 16−21

本文

 ゼカリヤ書13章と14章を学びます。ついにクライマックスが来ました。ここでのメッセージ題名は、「主が来られる」です。

1A 罪と汚れの清め 13

 13章は、12章の終わりの続きになります。エルサレムの住民のために戦う主を彼らが見たら、それは先祖が突き刺したイエスでありました。それで彼らは、とてつもない罪を犯したことで激しく泣きます。その嘆きは、イスラエルの指導層、そして一般の人々、あらゆる人々に及び、しかも、家族の中でも一人ひとりが個人的に泣き、表面的ではない、徹底した霊的覚醒が起こります。

 13章はその後の続きです。

1B 偽預言者の除去 1−6
13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

 1210節に、主が御霊を彼らの上に降り注がれることが書かれています。その注ぎによって、彼らはメシヤがイエス様であることを悟るのですが、それにともない、罪と汚れを清める泉も開かれます。もちろん、この泉はキリストご自身です。キリストが流された血が彼らの心にも注がれます。こうして彼らは、今私たちが経験する御霊による新生を経験するのです。

 御霊の洗い清めについては、例えばテトスへの手紙にこう書かれています。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5」また、コリント第一6章11節には、「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」とあります。

 イエス様がこの御霊の新生についてお語りになった時、ユダヤ人指導者のニコデモは理解できませんでした。「どうして、そのようなことがありえるのでしょう。(ヨハネ3:9」と答えています。そこでイエス様は尋ねられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(同10節)」イスラエルの教師であれば分かって当然のこと、そうです、旧約聖書の中にこのことがしっかりと書かれているのです。

 エゼキエル書36章を開いてください。エゼキエルは、36章からイスラエルが回復する幻を見ます。36章には、彼らが土地に戻ってくることの約束が、37章には彼らの国が再び建てられることの約束、そして38章と39章には周囲の敵がイスラエルを攻めるが、神が介入してくださり、彼らが救われる約束です。それぞれの約束で、最後に、「わたしは彼らをきよめる」という約束も神は与えてくださっています。

 その一つを見たいと思いますが、3625節からです。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25-27節)

 ここで大事なのは「」です。私たちは自分の行ないを改めようと思っても、心が堕落しているので罪を犯さざるを得なくなっています。けれども神がご自分の霊によって私たちの心、そして霊を新しくしてくださるなら、私たちは神の命令に従うことができるようになります。それはもはや、その側の律法の行ないではなく、神を個人的に知っている愛の関係のゆえに可能となります。

 今度はエレミヤ書31章を開いてください。ユダが堕落してしまい、もう神に従っていくことはできないと神は判断されました。それでユダをバビロンに捕え移されることを決められましたが、けれども神は、新たな約束を与えてくださっています。「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・

 神は、「新しい契約」と呼ばれています。新約聖書という言葉はここから来ていますが、イエス様が最後の晩餐において弟子た ちに杯を回された時、「これは、あなたがたのために流される新しい契約の血です。」と言われました。イエス様は、ここのエレミヤの預言のことを思いながら、そうお語りになったのです。

 どうして、「新しい契約」と呼ばれているのでしょうか?その前に契約があるからですね。それがシナイ山のところで主がイスラエルの民に与えられた契約であり、律法に基づくものです。けれども、イスラエルの民はずっと律法に背きつづけ、今、戻ることができない所まで来てしまいました。続けて読みましょう。

 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(以上31-34節)」モーセは二枚の石の板をもってシナイ山から降りてきました。けれども律法やもはや、石に刻まれている文字ではなく、心に刻まれるのだ、と言われるのです。先ほどのエゼキエルの預言と同じです。

 そのため、どう書いてありますか?「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」です。もはや、律法と言う規則を守って主とつながろうとする主人と僕の関係ではなく、妻が夫を知っているように、子が父を知っているように、個人的な、人格的な関係に入るのです。

 そして神様は、罪の完全な赦しを宣言してくださっています。もう思い出さない、とまで言われます。「でも神様は、私はこんなに酷い罪を犯しんですよ!」と訴えても、「何 それ?」と言われるだけです。もう二度と思い出さないのですから。

 このように、すばらしい御霊の新生がイスラエルの人々に与えられます。

13:2 その日、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは、偶像の名をこの国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。

 偶像と偽預言者らが取り除かれます。まず偶像についてですが、既に10章2節で偶像がイスラエルに終わりの時に至るまで存在することを見ました。現代のイスラエルにも、偶像はたくさんあります。実際に東洋神秘に凝っている人々は多いし、また不品行も充満しています。イスラエルでは、売春は合法、中絶も部分的に認められており、異邦人の国と何ら変わらない状況です。

 そして終わりの時にも偶像があります。黙示録9章には、底知れぬ所から出てきたいなごのような、さそりの毒をもつ悪霊に苦しめられ、そして二億人の軍隊が世界の人々を殺しますが、それでも「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(20-21節)」とあります。

 そして何よりも、獣、反キリストの国そのものが偶像礼拝です。反キリストが聖所の中に入り、自分こそが神であると宣言し、そしてもう一匹の獣が獣を拝むように仕向けます。獣の像を作り、その像がものを言うようにさせ、この像を拝まないものは殺しました。

 そして偽預言者です。偽預言者と「汚れの霊」が共に語られていますが、これは偽りの教えには、必ず悪霊がその背後にいるからです。パウロが言いました。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(1テモテ4:1

 そして偽預言者らが、終わりの時、特に大患難の時に、イスラエルの残りの民を惑わすことをイエス様は警告されました。「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。(マタイ24:23-24」これも、今のイスラエルはあらゆるカルトを受け入れている現状を見ると、その徴候を見るのです。けれども、彼らが殺されます。

13:3 なお預言する者があれば、彼を生んだ父と母とが彼に向かって言うであろう。「あなたは生きていてはならない。主の名を使ってうそを告げたから。」と。彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう。

 これは申命記に書かれている戒めです。偽預言者は殺されなければいけないのですが、それが家族の間から出てきたら、その家族が殺しなさいという命令です。「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならな� ��。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。(申命13:6-9

2012年4月28日土曜日


4月8日はイースターですね。特別にうちは何するってわけではありませんが、あちこちでウサギや卵型のお菓子が売られているのし、イースターのお楽しみにしようと思って、少しずつ買い足してます。

イースターは、十字架にかけられて死んだキリストが、復活したことをお祝いする行事なので、再生の象徴である卵、そして多産・繁殖力の象徴であるうさぎがよく使われます。キリストは3日目に生き返ったので、イースター前の金曜日はキリスト受難のグッドフライデー。

そしてイースターそのものは、もともとはユダヤ教のPassover(過越し祭)からきています。この時期はイースターを祝うクリスチャンと、パスオーバーを祝うユダヤ人で混ぜ返しているわけですね。

Passoverは、神に導かれたモーゼが、奴隷であったユダヤの民を解放し、エジプトから脱出し、晴れて自由の身となったことをお祝いする行事です。

2012年4月26日木曜日


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2012年4月25日水曜日


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2012年4月23日月曜日


<朝のディボーション>
 ツァラアトのきよめの儀式が丁寧に書かれている。ツァラアトは、罪そのものであるというわけではないが、罪の型として示されている。
ダビデがバテシェバとの関係で姦淫と殺人の罪を犯し、苦悩していた時に、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」(詩編51:7)と語ったのは、決して、この儀式とは無関係ではなかった。手に負えない、罪ののろいは、ツァラアトに苦しむことに重ね理解されるのである。
 もちろん、ツァラアトばかりではない。人間を死にねじ伏せる病は皆、私たちに罪ののろいの何であるかを考えさせるものだろう。人間がいかに罪に対して無力� �あり、罪の故にすべてを失おうとしているか、その現実を思い知らせるのである。
 ただ日本人は、そのような罪をなかなか感じることができない。しばしば罪は、恥とすり替えられてしまう。何か社会的に不名誉なことをした時に罪を犯したのだと考えてしまう。あるいは、人には知られたくない悪事が暴かれた時に、社会的な制裁を加えられるような事態に陥った時に、それを罪として感じるところがある。しかし、それは世間の目を気にし、世間の基準から外れてしまったことへの羞恥心であって、神の前に自覚し、悟らされ、自ら恥じ入る罪とは違う。だから、信仰を持って、クリスチャンとしての歩みをするにしても、常に気になるのは、神の目であるよりも、牧師の目であったり、他の信徒の目であったりで、人前での宗� ��的な体裁を整える程度の、人間的な次元での歩みに留まることがある。真に内実を変えていく信仰というのは、人の目を意識しているだけではだめで、神に出会うことなくしては不可能なのである。罪というのは、神の基準にそぐわぬこと、自らを神とすることにその本質がある。神の前における人間的な奢り、高ぶりがそうであって、それが、いかに私たちの人生を汚し、私たちの人間関係を破壊し、さらに、私たちの生産活動、慈善、奉仕の一切をだめなものにしているかに気づかねばならない。私たちが気づけば、私たちの人生が変わる。
<夜のディボーション>
 罪人がきよめられる時の儀式に、キリストの十字架による救いの型があると言われる。土の器に入れた湧き水の上で小鳥のうちの一羽を屠るというのは、イエ� ��キリストの受肉、つまり神が人となられ、エルサレムの町の外、ゴルゴダの丘において、私たちの罪の赦しのために十字架にかかり、死なれたことの象徴である。また、もう一匹の鳥が、その血を受けながら空に放たれることは、キリストの復活の象徴である。
 興味深いことに、宿営に戻された病人は、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえをささげることを許されているが、同時に、祭司の任職に似た儀式を受けるように定められている(14-20節)
祭司の任職においては、その血を祭司の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。それによって祭司は、いけにえと同一視され、罪人である自身に死に、新しく復活した者として奉仕することが象徴された。右の手は、力の象徴である。だから血 塗られた耳たぶは、神のことばを聞くために、同じく手は神の奉仕に携わるために、足は、主の庭を歩くために聖別されたことを意味していた。また油注ぎも、聖別のための聖霊のバプテスマを意味するものであって、それらは、主の奉仕者となすために、なくてはならないものであった。
きよいということは、品格が整えられる以上に、神の奉仕者としてふさわしくされる、ということだろう。品性のきよめを意識する者は律法学者がそうであったように、結局は自分を誇りとする罪の中に舞い戻ってしまうのである。しかし、神の奉仕者として自分が救い出され、きよめられたことを意識する者は、神に生きることを望みとする。罪から救い出されるということは、神のしもべとなり、神の有用な器となることである。宿営の交わ� �に戻されるということは、その人が、変えられた者となったからこそである。罪から立ち返った者であればこそ、変えられた者として、きよいと宣言された者として神に生きることを覚えて歩みたいものである。

<朝のディボーション>
ツァラアトの診断と処置について。これは、新改訳の第二版までは「らい病」と訳されたもので、ツァラアトはヘブル語の音訳である。この疾患の典型的な症状は、「患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えている」こと、つまり毛の色の白色変化と患部のへこみにある。伝統的にこれは、新約聖書時代や中世のヨーロッパで大変な苦悩をもたらしたハンセン氏病のことであると解釈されてきたが、現代では否定されている。そのため、新共同訳では、「らい病」という言葉を避け、「重い皮膚病」と訳し、また、英訳聖書のNIVでは「伝染性皮膚病」(infectious skin diseases)と訳されている。確かに47節以降、このツァラアトという疾患は、人間に生じる病理的な現象だけを意味するのではなく、衣服にも壁にも出てくる症状なのである。
翻訳の難しさは、単純に、別の国のことばには置き換えられない、ことばの意味の幅があることだろう。まして年代差のあるものについては一層複雑で、現代の用語にそう単純には置き換えられない。そういう点から見ても、単純にハンセン氏病とは置き換えられないということにもなるのだが、かといって、「重い皮膚病」も苦しい訳である。「重い」というイメージがあるからだ。むしろ、「伝染性皮膚病」も、47節以降の衣服のツァラアトが、人間に伝染するとは考えられていないようであるから、これも難しい。大切な点は、人間にしろ、衣服にしろ、こ� �疾患が「拡大」、「浸潤」するということなのだろう。そういう意味では新しいことばかもしれないが、「浸潤性皮膚病」と言ってもよいのかもしれない。
 ともあれ13章は、このツァラアトと他の病気、火傷、疥癬、湿疹との区別について語っている。このような紛らわしい病との識別は、祭司の重要な役割でもあった。おそらく、疾患の診断はだれにでもできたことなのだろうが、決定的な診断は祭司の役割とされた。
<夜のディボーション>
 この浸潤性皮膚病に罹患した人は、「衣服を引き裂き」「髪の毛を乱し」「叫ばなければならない」(45節)とされる。それは、罪の罰として神から与えられる病、と考えられていたので、悲しみを表現するためである。彼らは死人と同じようにみなされ、宿営の外に暮さなくて� �ならなかった(46節)。
この個所を、ただ、こうした病理的な判断基準を述べていると読んでしまったら、それまでなのだが、神がその識別を教えられた象徴的な意味を汲み取ることもできるだろう。というのも、この病の性質は、罪の性質に通じるところがあるからだ。「皮膚に広がってきたら」とあるように、しばしば罪は一つ二つというものではなく、私たちの生活全体に浸潤し冒すものである。また、「彼は汚れているので、ひとりで住みその住まいは宿営の外でなければならない」とあるように、罪は人間関係を遮断し、共同体から人を追放してしまう性格を持つ。私たちのうちにある罪が、私たち自身を、また私たち自身の人間関係をも変えてしまうのである。 
イエスは、そのような罪人の私たちに哀れみを示し、私 たちの罪の赦しのために十字架にかかってくださった。本来ならば、宿営の外に、永遠に放り出されてしまうはずの、私たちが、神のあわれみの対象とされたのである。イエスは、人々が忌み嫌い、遠ざけたツァラアトの病人に、手を伸ばしてさわり、「私の心だ、きよくなれ」(マルコ1:44)と癒されている。ここに、不治の病、救いがたい罪の囚われの中にある人々に対する希望がある。
神のもとに行き、自分の罪の現実を知ることは、もはや終わりを意味するのではない。たとえその罪が浸潤性であり、一層根の深い絶望的な症状を呈しているものと判断されることがあっても、神にはこの罪を取り扱う力がある。神に近づくところに、新生の希望がある。いつでも、自分自身の問題を神に持ち来たって、神の取り扱いを受ける心� ��持ちたいものである。

2012年4月22日日曜日


聖書の民

旧約聖書を開くと、そこには古代イスラエルの民の歴史物語が書かれています。
現代イスラエル国家を設立したユダヤ人たちは、人によって程度の違いはありますが、この旧約聖書の物語が、何らかの形で自らの民族の歴史であると考えています。

旧約聖書は一冊の本というより様々な書物の集大成で、その中には、神による世界の創造、 アブラハム、モーセ、ヨシュア、ダビデなどの物語を描いた叙事的物語から、ヨブ記や伝道者の書のように、信仰の内面に迫ったもの、 また歴史の中に翻弄されていくイスラエルの民や苦悩する預言者の姿など、実に多くの物語が含まれています。

神のアブラハムに対する約束

聖書におけるユダヤ民族を理解する鍵となるのは「神と民族の約束」です。 そのような約束の実在を信じない人もいるでしょうが、この「約束」は現在のユダヤ、キリスト、イスラム教の基本であり、今も世界を動かしているのです。

2012年4月20日金曜日


それは、ほとんどの人が"学術のテキストは"実際に何であるかについて、膨大な誤解を持っているようです!

良い例が上に私たちのプレゼンテーションかもしれない神の存在のための引数。ほとんどの人は、ほぼすべての教会やその職員を含めてそのプレゼンテーションを、作成しようとした場合、彼らは"明白な"方法でそれを組み立てるでしょう。

そして、それはおそらく、"学術的"、それが研究と提示された方法鮮やかに関係なく、であることのために適合しないと思われる!

あなたがここにリンクされている私たちのプレゼンテーションを見てみると、あなたは、学術として、それを修飾する著名な区別が表示されます。

右の神の存在の引数の最初のプレゼンテーションの後、その著者は、神の存在に対する議論を説明するセクションがあります!

ほとんどのクリスチャン省はこのようなことを含めに対して悪意を持っているようだ!

多くは私がこのようなことが信じるに含まれることを許して地獄に行くことを確信すること私に言った!

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我々はそれを疑う!

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2012年4月19日木曜日


エホバの証人(エホバのしょうにん、英語:Jehovah's Witnesses)とは、1884年にチャールズ・テイズ・ラッセルにより創始された国際的な宗教団体の成員の名称で、聖書を教典とし世界政府の確立及び全世界が神権政治により統治された社会の実現を支持する組織である。[1]

なお、本記事においては特に断らないかぎり、引用元を示す聖書の書名略記は同団体の日本語冊子等で用いられている用語に、章・節は新世界訳聖書に準拠する。

かつて聖書研究者(国際聖書研究者)と呼ばれていた。神エホバとその御子キリストが天と地を支配する「神の王国」(全宇宙的な神の政府)の確立を支持している。日本に於いては1900年代初頭から「萬國聖書研究團(ばんこくせいしょけんきゅうだん)」という呼び名で活動し、日本支部は「灯台社(とうだいしゃ)」(正式には「燈臺社」)と言う名称で1927年に明石順三によって設立されるも、戦後除名処分を受け、以来エホバの証人と灯台社には直接的な関係はない。聖書は主に「新世界訳聖書翻訳委員会」によって翻訳された新世界訳聖書、また必要に応じて欽定訳聖書・新共同訳聖書等市販の聖書を使用する。以前は市販の聖書のみを使用していた。例えば英語圏では欽定訳聖書(KJV)とアメリカ標準訳(ASV)を、日本語で� �日本聖書協会発行の文語訳聖書を使用していた。成員は全世界(2009年現在236の国や地域)で活動しており、宣教活動を非常に活発に行うことで知られる。自らを1世紀のクリスチャンの復興(真のクリスチャン)としているが、三位一体説の否認などにより基本信条を告白する主流派キリスト教団体からは異端として扱われ、日本では宗教学上「キリスト教系の新宗教」に分類されている。[2]尚、「エホバの証人」という名称は、あくまでも組織を構成する個々または全体の成員そのものを指す名称であり組織名ではない。法人として国、州、郡、都道府県市町村に登録された関連団体は別に名称(ものみの塔聖書冊子協会・エイドアフリーク・国際聖書研究者協会・エホバの証人○○会衆等)を持っており、それらすべてを統括した組織名は現在のところ存在しない。

[編集] 法的機関

Watchtower Bible and Tract Society of New York(ニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会)は、エホバの証人が用いる数ある法人の1つで、関連法人を代表している。他の法人として Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania(ペンシルベニア州のものみの塔聖書冊子協会)、Christian Congregation of Jehovah's Witnesses(エホバの証人のクリスチャン会衆)、そして英国、ロンドンにあるInternational Bible Students Association(国際聖書研究者協会)がある。世界の他の主だった国々で、組織の活動を促進するための地元法人が設立されている。

「エホバ」とは、旧約聖書に描かれる主要な神の名に対応する、日本語表記の1種である。古くには文語訳聖書で「ヱホバ」とも表記された。レニングラード写本 B 19Aの母音符号の打ち方では、四文字語יהוה (アルファベットではYHWH)はエフワー、エフウィ、およびエホーワーと読め、ギンスブルクの編さんしたマソラ本文の母音符号の打ち方では、エホーワーと読めることから、これが派生して「エホバ」という発音が出来たとも考えられる[3]

現在、その正確な発音がどのようなものであったのかについては様々な見解が存在するが、彼らの関心事は「正確な発音」や「正確な名称」そのものにはなく、神の御名が人々の間で高められることに焦点が置かれる。むしろ、「正確な発音が神にとって真に重要であるならば、神ご自身がその保存を怠るはずもなく、そういう事実が無い以上、発音それ自体は重要ではない」、「もし神の名を正確に発音することが必要なら、イエス・キリストもエホーシュア・マシーアハ(ヘブライ語)に変えなければならない」といった見解が見出される。また、聖書に登場するダゴンやモレク、バアルといった他の神々と区別するためには「主」や「神」といった称号では不十分であり、固有名詞の使用は不可欠であると彼らは主張する[4]

1931年より以前、彼らは「ラッセル派」、「ラザフォード派」、「千年期黎明派」、「地獄否定者」、「ものみの塔信奉者」などの蔑称で呼ばれていた。その一方で、彼らは自身のことを「聖書研究者」、「国際聖書研究者」、などと呼称していたが、後者にしても、決して彼らの正式名称というわけではなかったといわれる。1931年にオハイオ州コロンバスで開かれた大会(7/24-7/30)において、7月26日、日曜日に「エホバの証人」との名称を採択する決議が承認される。この大会を皮切りとして、その後、世界各地で開かれた大会もこれに追随し、以降「エホバの証人」は彼らの正式名称となった。

[編集] 神の王国

[編集] 定義

「神の王国」とは、エホバの証人が全面的に支持し到来を期待している新しい社会、またそれを実現する政府であり、心の中にある架空の世界などではない。イエス・キリストを王として天に設立され、遠くない将来、地上においても統治を開始する機関である。

出版物の中ではしばしば、「人間に苦難をもたらす状態をすべてこの地から除去し、永続的な平和と安全をもたらし得る唯一の政府」、「『平和の君』であるみ子イエス・キリストが治める」、「地上の多種多様な人間の物事を管理する義の世界政府」などと定義されている。1960年代までは「御国(みくに)」と表記されていた。

バプテスマを受けた成員はその王国の「臣民」(「国民」、「民」とも称される)として位置付けされており、すべての成員には、その政府を全面的に支持し、王国の到来に伴う希望(「王国の良いたより」)を布告する義務が課せられている。その布告は主な方法として戸別訪問などを用いて行われる。また王国政府への支持を表明する故に地上に現存する如何なる政治に対しても厳正中立的な立場を保ち、国旗敬礼や国歌斉唱はもちろんのこと、参加(立候補・投票など)も一切しない。

また、その「臣民」には「神の王国」の法律、「原則」と呼ばれるものに従う義務を持つ。その「原則」と呼ばれるもののなかには、殺人及び窃盗の禁止など多くの国の法律に共通する規則や結婚外での性関係の禁止などの規則が含まれている。

長年にわたり「神の王国」についての布告を主な活動としており、関係する物件の名称に「王国」という単語が含まれていることが多い。(「王国会館(Kingdom Hall)」(エホバの証人が集会場所として利用する施設)、「王国の調べ」(賛美歌のオーケストラ編曲)、「エホバの王国を告げ知らせる ものみの塔」(機関紙の名称)など1970年代初頭から英文「新世界訳」の影響もある。)

地上における支配は、キリスト教世界の壊滅、国際連合その他地上に現存するすべての政治組織の一掃をもって開始される。それを「ハルマゲドン (全能者なる神の大いなる日の戦争)」と言い、如何なる勢力を持ってしても止めることはできないとされている。

2012年4月17日火曜日


イエスにはどんな特別な役割がありますか。

イエスはどこから来ましたか。

イエスは人間としてどんな方でしたか。

世界には有名な人が大勢います。その人が住んでいる町や都市,国でよく知られている場合もあれば,世界中に名が知れ渡っている場合もあります。しかし,有名な人の名前を知っているだけでは,その人を本当に知っていることにはなりません。その人の育ちや経歴の詳細,本当の人柄を知っていることにはならないのです。

2 イエス・キリストは今から2,000年ほど前に地上で生活していましたが,この人については今でも世界中の人たちがある程度のことを聞いて知っています。それでも,イエスは実際にどんな方だったのかという点になると,多くの人の考えは混乱しています。イエスは良い人だがそれだけのことだという人もいれば,イエスは預言者の一人に過ぎないと唱える人もいます。さらには,イエスは神ご自身であり,崇拝されるべき方である,と信じる人たちもいます。しかし,イエスを崇拝するのは正しいことでしょうか。

3 イエスに関する真理を知るのは重要なことです。なぜでしょうか。聖書がこう述べているからです。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3)そうです,エホバ神とイエス・キリストに関する真理を知るなら,楽園の地で永遠の命を得ることができるのです。(ヨハネ 14:6)さらにイエスは,どのように生きるか,どのように人と接するかについても,最も優れた手本を示してくださいました。(ヨハネ 13:34,35)この本の1章では,神に関する真理を取り上げました。この章では,イエス・キリストについて聖書が実際に何を教えているか考えましょう。

約束のメシア

4 聖書はイエスが生まれるずっと前,神がメシアつまりキリストとして遣わす方の到来について予告していました。この「メシア」(元はヘブライ語)および「キリスト」(元はギリシャ語)という称号には,いずれも「油そそがれた者」という意味があります。約束されたこの方は油そそがれる,つまり,特別な地位に就くよう神から任命されることになっていました。神の約束が果たされていく上でメシアが占める重要な立場については,この本の後の章でもっと詳しく学びます。イエスが今でさえ祝福を与えてくださることについても後で学びます。しかし,イエスが生まれるまでは,多くの人が,『だれがメシアになるのだろう』と思っていたに違いありません。

5 西暦1世紀,ナザレのイエスの弟子たちは,イエスこそ予告されていたメシアであるという確信を抱いていました。(ヨハネ 1:41)弟子の一人であるシモン・ペテロはイエスに,『あなたはキリストです』とはっきり言いました。(マタイ 16:16)しかし,それらの弟子たちは,どうしてイエスが実際に約束のメシアであることを確信できたのでしょうか。どうすればわたしたちも確信できるでしょうか。

2012年4月15日日曜日


イスラーム建築(英語: Islamic architecture, アラビア語: عمارة إسلامية‎)とは、草創期から現代に至るまでに、イスラームの人々によって生み出された建築である。ムスリム建築、ムハンマダン建築とも呼ばれる。たいへん多様な建築であり、建築材料も建築技術も多岐にわたるが、一定の統合的な原理を持ち、また、古代建築の特徴を西洋建築よりも色濃く受け継いでいる。

イスラーム文化の領域内においては、モスク、ミナレット、ミフラーブ、ムカルナスなどの施設が採用されたため、建築のデザインや構成は地域性を超えて大きな影響を受けた。また、イスラームでは偶像崇拝が禁止されていたため幾何学模様と文字装飾が発展し、美しいアラベスクやカリグラフィーがイスラーム建築を彩っている。

ここでは、イスラーム建築をいくつかの地域に分け、その変遷の歴史を展開した上で、構成要素を展開する。現代イスラーム建築についても、簡単に触れる。

イスラーム建築とは、7世紀から18世紀、ないしは19世紀までの期間に、イスラーム文化圏で形成された建築を指している。現代のイスラーム世界の建築は、現代建築としてこの言説では触れられないこともある。ほぼ1200年に渡る時間と、世界の半分と言ってもよいほどの地域を占めており、その意匠はイスラームを信奉する民族と同じほど多様性を持つと言っても過言ではない。ただし、イスラームは宗教であると同時に社会構造であると言ってもよく、このため、イスラーム建築には地域性を超えた、共通した特質が認められる。

イスラーム建築は、カロリング朝滅亡の後に古代と断絶したヨーロッパ諸国の建築に比べ、古代建築の諸形態をよく受け継ぎ、今日に至るまで維持してきた。このため、イスラーム建築の形態は、おおまかに、南西部アナトリア半島から北部シリア、パレスティナ、エジプト、リビア沿岸部から北アフリカ西部までのかつてのローマ帝国および東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配地域と、メソポタミア、アフガニスタン、パキスタンなどのサーサーン朝ペルシャ帝国の支配地域に分けることができる。

アッバース朝滅亡の後に勃興し、あるいは衰退していったイスラーム諸国は、特定の宗教施設、社会施設を導入し続けた。これについては、少なくともウマイヤ朝の成立からアッバース朝が滅亡するまでの間は、ローマ式の社会制度と建築施設を各地に建設し続けたローマ建築と状況はよく似ている。実際に、礼拝モスク、ミナレット、ミフラーブ、ムカルナスなどの施設はイスラーム建築の最も目立つ共通性となっている。

イスラーム建築の歴史については、便宜的に次のように区分することができる。つまり、「前古典期」あるいは「形成期」、「古典期」、「ポスト古典期」である。「形成期」は、イスラームが生まれる前の建築を積極的に導入し、同化していった時期で、ウマイヤ朝、アッバース朝、初期ファーティマ朝、後ウマイヤ朝、そしてサーマーン朝、ガズナ朝、初期セルジューク朝の建築がこれにあたる。「古典期」は、ムカルナスと尖頭アーチが普及していった時期で、建築技法や建築形態は、国や民族の壁を超えて自由に交錯した。「ポスト古典期」は、イスラーム建築の(現代イスラーム建築を除く)最後の改変期で、オスマン帝国とサファヴィー朝、そしてムガル朝の建築のことである。これらの巨大勢力の建築は、地理的に隣接し� ��いるにもかかわらず相互に全く影響を及ぼさなかった。

[編集] 形成期の建築

モスクをはじめとするイスラーム建築は、その起源も含め中東一帯の建築文化の系譜に連なっている。

イスラームに先行してアラビア半島周辺では、神殿やシナゴーグなどの宗教施設において、既に聖所、中庭、中庭を取り巻く列柱という建築要素が存在し、後の時代に建設されるモスク建築もこの伝統に連なるものと見る事ができる。例えば、先イスラーム時代の紀元前2世紀のものと思われる南アラビアで発掘されたフッカ神殿には、聖所とそれに後続する中庭プランを有し、その中庭には八角柱による列柱が巡らされ、中庭には水盤が置かれていた。また、南シリアのドゥラ・エウロポスのシナゴーグ遺跡には、すでにトーラーを安置したと思われる聖龕と右脇に説教壇が置かれた聖所を持ち、それに後続して列柱を巡らせた中庭をもっていた。聖龕と右脇に配された説教壇、列柱つきの中庭、水盤という構造は、現在に至るモスク建 築の要素と共通する。

イスラーム建築の端緒は、622年のヒジュラの後にマディーナに礼拝所として建設された預言者ムハンマドの邸宅に始まる。記録によると、預言者の家は日干しレンガ(アドベ)で作られ、1辺が100ディラーウ(dhirā')すなわち約50メートル、面積は約2,500平方メートルの広い中庭と、それに接する南北に1列ずつの柱廊を巡らした部屋から成り、壁の高さは2.5メートル程であったという。中庭に面する柱列にはシュロで覆って屋根をつけた。ムハンマドはここを信者に開放して集団礼拝や信者からの陳情を聞いたと伝えられる。当初エルサレムがキブラであったため北側の壁面を背にして普段ムハンマドが礼拝する右脇に3段の木製の高座(のちのミンバル)が置かれ、ここでムハンマドは説教を行っていたが、マッカ征服後はキブラはマッ� �に定められたため、南側の柱廊が増設されミンバルも移動した。これが現在の預言者のモスクであり、その後の全てのモスクの起源、雛形となった。ただし、アッバース朝の歴史家イブン・サアドによるムハンマドの伝記によれば、ムハンマド自身は信者の財産を無駄にするということで、建物の建設を禁じたと伝えている。豪華な建築物の建立と偶像を禁止するという預言者の教えに従い、ムハンマの存命中と彼の後継者である正統カリフの時代には、イスラーム建築はほとんど発展が望めない状況にあった。しかし、ウマイヤ朝の時代になると、イスラームは芸術に対する関心を示すようになり、これにともなって建築も発達する。ウマイヤ朝からアッバース朝の時代にかけて、イスラーム建築は古代の建築を吸収し、イスラーム特有 の建築形態を模索することになるのである。

[編集] 預言者ムハンマドと正統カリフの時代

ムハンマドがキブラをカアバ神殿に定めたのは624年のことであったが、マッカとカアバ神殿がクライシュ族から奪還され、イスラームの聖地となったのは630年であった。この場所はイスラーム以前から聖地として巡礼者を集めていたが、ムハンマドが偶像崇拝を禁止したため、カアバ神殿内の偶像は全て破壊された。カアバ神殿はイスラーム最初の建築物であるが、既存の建築物を修繕したもので、イスラーム独自の建築と呼べるものではない。


7世紀中に、ムスリムの軍隊は、ペルシャ、シリア、エジプト、マグレブ(そして8世紀にはイベリア半島へも)に領土を拡大し、各地に信仰の拠点となるモスクを整備した。638年、サアド・ブン・アビー=ワッカースはクーファの町を建設し、ここに会衆モスクを建設した。周囲を堀によって一辺約104mの正方形に区切り、キブラに向かって木造屋根を架けた列柱を持つだけの、たいへん簡素なものである。しかし、この単純な建物が最初のイスラーム建築で、635年頃に建設されたバスラの会衆モスクは葦で囲われただけであった。

宗教施設と比較すると、世俗建築はより強固な建築であった。635年、バスラに政庁府(ダール・アル・イマーラ)が建設され、638年には、クーファにも政庁府が建設されるが、賊が侵入したことによって、ウマル・イブン=ハッターブはクーファの政庁府をより堅牢なものに建て替えるよう命じている。また、644年から656年の間に、ムアーウィアによってダマスカスの政庁府が建設されている。しかし、やはり建築物には何らの装飾も行われなかったようで、東ローマ帝国の使節はこの政庁府を評して、上は鳥の巣、下はネズミの巣と述べている。

[編集] ウマイヤ朝によるイスラーム建築の発達

それまでの正統カリフの時代に比べると、ウマイヤ朝はイスラームに芸術をもたらすことになるが、その着想はサーサーン朝の装飾やシンボルの影響がたいへん強く、少なくとも芸術分野においては、ウマイヤ朝はサーサーン朝の後継者であった。東ローマ帝国の影響があまり認められないのは、コンスタンティノポリスを攻略できなかったことが大きいと考えられる。建築については、やはりサーサーン朝のペルシャ様式の影響が濃いものの、都がダマスカスにあったこともあって、ローマ建築、古代エジプト、ビザンティン建築の影響も認めることができる。

ウマイヤ朝による初期のイスラーム建築の傑作は、7世紀末に完成したエルサレムの岩のドームと、8世紀初頭に完成したダマスカスのウマイヤド・モスクである。アル=アクサー・モスクも、現存する建物は ワリード1世によって建設されたものが中核となっているが、アッバース朝の時代に大増築され、さらに後の時代になっても度重なる変更が成された。現存する部分では、東側の廊下の一部がワリード1世の時代のものと考えられている。ワリード1世は、706年にモスクにミフラーブを設置することを決めるなど、ウマイヤ朝の建築に大きな足跡を残したカリフで、建物の建設に際してはエジプトのコプト教徒の工匠を雇用し、イスラーム建築の発展に寄与した。

岩のドームは、ウマイヤ朝の全盛期を築き上げた第5代カリフであるアブドゥルマリクの手によるもので、八角形の台座の上に、室内に光を取り込むドラムと呼ばれる円筒状の部分を設け、その上に金色に輝くドームを設けた。台座にあたる部分は、カアバと違って八角形で、内陣(聖なる岩がある)を周歩廊が取り囲むが、この形式は初期キリスト教建築におけるマルティリウム(記念礼拝堂)のいくつか[1]に類似している。

しばしば大きなダメージを受け、大幅に改修されてしまったために、当時の姿をほとんど停めていないが、ダマスカスの大モスク(ウマイヤド・モスク)は今なおイスラームの重要な建築物として存在している。ワリード1世によって、706年に建設されたウマイヤド・モスクの中央に設けられた袖廊の北側正面は、コンスタンティノポリスにあった皇帝宮殿のハルケ門や、スプリトのディオクレティアヌスの邸宅、イタリアのラヴェンナにあるサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂のモザイクに描かれた東ゴート王国のテオドリック王の宮殿などとの共通性が指摘され、比較されている[2]。ラヴェンナのテオドリックの王宮と同じく、ダマスカスの大モスクもモザイクがちりばめられており、中庭と廊下はカーテンで仕切られていたようである。

ワリード1世によって建設されたと言われるアンジャルは世界遺産にも登録されている都市遺跡で、近隣の石切り場から、714年の刻印の入った外壁仕上げ材が発見されている。370m×310mにもおよぶこの都市を建設したのはエジプトの職人集団で、列柱によって装飾されたカルドとデクマヌスの交差、インスラによって形成されるグリット状の都市形態は、ルザファ、ティムガッドなどのローマ都市そのものである。ただし、宮殿とされる建物はバイトによって構成されるイスラーム特有の形式で、公私二つの謁見広間を持っている。

イスラーム初期の建築装飾は、現在、その一部がベルリンのペルガモン博物館に保存されている未完の都市、ムシャッタ宮殿に見ることができる。浮き彫りの唐草模様がびっしりと施された壁面は、ジグザグのモールディングによって三角形に縁取られており、地中海の芸術とサーサーン朝初期の芸術相互の影響をみることができる。しかし、このような装飾はオスマン朝とムガル朝を除けば、以後のイスラーム建築では全く見られない。

[編集] アッバース朝の初期イスラーム建築

サーサーン朝が君臨していた現在のイラン、イラクをその勢力下においたアッバース朝は、サーサーン朝以来のペルシア建築の伝統を引き継いだ。アッバース朝の時代には、ウマイヤ朝由来の陸屋根を多くの円柱で支える多柱室形式のモスクが各地に建設されはじめたが、宮殿に採用された四分割中庭とドームに通じるイーワーンはペルシアの職人によって建設されたもので、おそらくペルシア建築に由来するものと考えられている。

762年に、アッバース朝第2代カリフのマンスールによって建設が開始されたバグダードは、現在に残る痕跡はまったくないが、同心円状の二重の城壁と四つの門をもった直径 2.3kmの円形都市であった。ニネヴェ、ハトラ、ハッラーン、アルダシール1世によって開かれたサーサーン朝の都市 フィールーザーバードなども、円形の堀や市壁に囲まれ、等間隔に四つの門が配置された構成であったが、このような円形都市は中央アジアではかなり古くから存在していた。つまり、バグダートは古代中央アジアの宇宙観から導かれた構造を受継いだ都市で、占星術的な天命思想を模範とする、アッバース朝初期の統治イデオロギーの具体的な表出と考えられている[3]。マンスールによるバグダードのアイデアは、元はゾロアスター教徒であった宮廷占星術師ナウバフトと、ペルシア系と思われるバスラ出身のユダヤ教徒マーシャーアッラーフら宮廷占星術師たちの入念なプランによるとされるが、仏教徒からイスラームに改宗した腹心のハリード・ブン・バルマクの関与も指摘されている。

カリフ・マンスールの甥にあたるイーサー・ブン・ムーサーによって764年頃か778年頃に建設されたと思われるウハイディル宮殿は、城壁に囲まれた砂漠の中にある宮殿遺跡であるが、かつては灌漑設備を備えた農地に囲まれていた。東西169メートル・南北179メートルに及ぶ広大な矩形の外壁を有し、さらに東西82メートル・南北112メートルに及ぶ内城壁によって宮殿の建物群が囲われていた。東西南北に四つの城門を持った外城壁は、約10メートル間隔で半円形に突き出た櫓を有し、城壁の上部には矢狭間(やざま)とアーチによって支えられた巡警路が内部に含まれており、城壁も含めて建物全体がレンガ造りではなくモルタルによって固められた石積みという大変に強固な構造である。これら二重の城壁によって宮殿は城塞化されてい た。現在でも内城壁内部の宮殿の主要な部分は原形を保っている[4]中央にイーワーンを通し、その両側に居室を配置するウハイディルの構成は、歴史家のマスウーディーによると、ペルシアの戦闘陣形を表したもので、第10代カリフ・ムタワッキルによってはじめて採用された。バグダートにあった大宮殿もウハイディルと同じ構成であったと考えられるが、これが事実であるとすれば、細部装飾、建築構造、平面計画のすべてはサーサーン朝に由来しており、アッバース朝の権力者たちがサーサーン朝の儀礼、権力を用いて、王権の不動性の確立に配慮したことが伺える。このような宮殿建築は、第8代カリフ・ムウタスィム(在位833年 - 842年)によって建設されたサーマッラーのカスル・アル=ジッスとジャウサク・アル=ハルカニーに見ることができる。


ムウタスィムはマムルークを保護するため、836年にバグダードの北約100kmに位置するサーマッラーに都を遷した。この都市は、ティグリス川の東岸に位置する長辺35kmの長方形の都市で、市壁などの都市を防衛する機能は何も持っていなかった。ムタワッキルの子ムウタッズの住んだサーマッラーのバルクワーラー宮殿には、「シュレークシュニット」と呼ばれる曲線で構成されたアッバース朝特有のスタッコ装飾が残っている。これはエジプトからトランスオクシアナの広範囲に見られる中央アジアに起源を持つ装飾で、その抽象性は後のイスラーム美術に通じる。サーマッラーの大モスクは848年頃に建設が開始され、852年に献堂式が行われた。現在は焼成煉瓦によって建設されたクテシフォンとほとんど同じ形状の周壁と、マルウィヤ� �ミナレットと呼ばれる螺旋型のミナレットのみが残る。しかし、周壁内部の大きさは240m×156mに達し、平面規模で言えば現在でも、イスラームで最も大きなモスクである。内部構造は失われているが、煉瓦造の角柱に転用材の円柱を取り付けた柱で陸屋根を支える、ウマイヤ朝由来の多柱室形式のモスクであった。サーマッラーでは、ホルサバードやバビロンの建築形態、サーサーン朝の伝統的装飾が取り入れられており、イスラームが独特の建築を獲得する上で、様々な素地を包含していったことがわかる。

[編集] サーマーン朝とガズナ朝の建築

875年にマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)全域を支配したサーマーン朝は、首都をブハラにおき、その宮廷は10世紀中期まで近世ペルシア語文芸復興の中心地であった。ガズナ朝はサーマーン朝から977年に事実上の独立を果たし、現在のアフガニスタンのガズナを拠点として北インド方面へ盛んに遠征し、最盛期にはホラーサーンからガンジス川流域までの広大な領土を支配した。いずれの王朝も、ゾロアスター教建築に由来すると見られる開放されたパビリオン形式の霊廟と、イーワーンを備えたモスクを形成するなど、イスラーム建築において主要な役割を担ったと思われるが、セルジューク朝以前のイラン建築はほとんど残っておらず、確実なことは言えない。

他の建築物に比べると、霊廟建築はある程度の残存例がある。ブハラに現存するサーマーン朝第2代君主イスマーイール・サーマーニーの霊廟はその傑作で、900年頃に建設が開始された。四方すべてが扉のない解放されたパビリオン形式で、煉瓦の模様積みと彫刻が施されたテラコッタを組み合わせることによって、美しい外観となっている。本来イスラームでは、墓を美しく飾ることが禁止されていたため、このような解放的なつくりにして、この禁から逃れる意図があったのではないかとの説がある。ティームのアラブ・アター霊廟は、977年の碑文を持ち、イスマーイール廟とほぼ同じモティーフの装飾によって飾られている。9世紀頃からイスラームの支配地域では、各地の伝教に従事したアラブ入植時代の宗教指導者たち(イスラ� �ム第一世代であるサハーバや預言者ムハンマド家の縁者たちも含まれる)などを聖者(ワーリーなど)として崇敬し、その墳墓を参詣する習慣が広範に見られるようになった。場合によっては墳墓に堂宇を設けて墓廟として建設する例も増え、これら中央アジアの墓廟建築の出現もこのような時代的な変化を背景としている。浅いイーワーンの背後にドームを持つ形式で、その後建設されるモスク形式のはしりというべき建築となっている。

2012年4月14日土曜日


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【Twetter】

こちらでちょこちょこつぶやいています。

どうぞよろしくお願いします^^

【下位チャクラの活性化のポイント】

下位チャクラの活性化のポイントを書いています。

こちらから最新のものと、今までの見出しがご覧になれます。

【遠隔セッションのご感想】

全く面識もなく、ご紹介も何もない、

初めての方からのご感想です。


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2012年4月12日木曜日


     宗教改革期の諸信条

 毎年、10月最終主日を宗教改革記念日として覚え、宗教改革に関する文書を,配布していますが、今年は、宗教改革時代に作られた、代表的な信条について記します。

 宗教改革は、16世紀、17世紀の時代ですが、プロテスタント(新教)は、たくさんの信条を作成しました。ルター派、改革派、バプテスト派、会衆派、その他、それぞれの教派が、自分たちの信仰を信条で積極的に表明しました。

 信条を、最初に作ったのはルター派です。ルターに指導されたルター派教会は、6つの信条を作りました。それらは、アウグスブルク信仰告白(1530年)、アウグスブルク信仰告白の弁証(1530年)、ルターの大教理問答書(1529年)、ルターの小教理問答書 (1529年)、シュマルカルト条項(1536年)、和協条(1577年)です。

 それで、今は、これらの信条について逐一述べませんが、ルター派教会の信条作成の特色は、この6つしか作らなかったことです。ルター派信仰は、母国のドイツから始まって、広くョーロッパ各国に伝わりましたが、しかし、ョーロッパ各国のルター派教会は、特には、信条を作りませんでした。ドイツで作られた6つの信条を持つことで満足したことだけを覚えたいと思います。

 では、改革派教会の信条はどうだったでしょうか。すると、カルヴァン以来、各国の改革派教会が、自分たちの言葉で、次々と信条を作って、自分たちの信仰を積極的に表明しました。そのため、改革派信条は、何十もあります。小さいものまで入れれば、さらに数は増えるでしょう。

2012年4月11日水曜日


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2012年4月10日火曜日


反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する差別思想をさす。

[編集] 反ユダヤ主義の背景

反ユダヤ主義者の主張には、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、排他的な思想であり、イエス・キリスト殺害の張本人であり、金融業で財を成した」などがある

選民思想とは、「選ばれた民」というだけでなく逆に唯一神を「選んだ民」でもあるが、後者の点だけであれば、キリスト教も同じであるのでキリスト教徒から難じられることも無い。 ユダヤ教とユダヤ人は民族主義であると同時に、確かに普遍主義を重視する場合もあるが必ずしも常に排他的とも言えない、とする意見もある。つまり、旧約聖書には、ユダヤ民族の他民族に対する最終的勝利を語る部分が少なくない、それらは古代イスラエルの比較的後代のものであるのだとし、「イスラエルの民によって、地上のすべての民が祝福に入る」と考えられる箇所もまた多いとするのである。しかし、その祝福がイスラエルの民による支配のもとにあってのものではないのかという疑念は残る。キリスト教と比べユダヤ教には、民族性を超えた普遍宗教としての性格は劣るという主張があるが、ユダヤ人というものは「ユダヤ教」の「宗教的共同体の一員」であるという性格を強く有することを考慮に入れる必要がある 。

歴史的にいえば、キリスト教初期において、ヘレニズムに基づくキリスト神学者の中には、ギリシャ文献のみを認める態度がある者もいた。やがてグノーシス主義とその異端視を通じて、反ユダヤ主義との争いに発展した。反ユダヤ主義的な信仰を異端とすることで決着がついた時は遅く、イスラム教とユダヤ教の協調と、聖像破壊運動が起こっていた。それ自体はキリスト教の勝利で終わったが、ユダヤ教の中に、異端として断罪した観念との類似性、基盤を見つけることは難しいことではなかった。もちろん、ユダヤ教とキリスト教は、およそ宗教を構成しうる要素について、完全に異なる宗教であり、仮に異端と同じ観念が相手方にあったとしても、それは関連づけるべきではない。しかしそうするには互いの主張は互いとの対比� ��依存し過ぎていた。ここにおいて、神学から離れ、政治的理由からユダヤ教の差別化が始まっていく。

イスラム教圏でもキリスト教国と同様の理由で差別が行われた[1]が、キリスト教圏に比してややユダヤ人の扱いは良好だった傾向にある。 厳しい制限付きではあるものの一定の人権を保障された彼等は、時には宮廷などで活躍することさえあった。ただし、キリスト教圏でもユダヤ人に対し寛大な取り扱いがなされることもしばしばあり、国家財政を左右するほどの力を持ったユダヤ人もいたため、一概に論じることはできない。

なお中国等、反ユダヤ主義のない地域ではユダヤ教徒は現地の宗教と同化するか、開封など排他的で自立的な比較的小規模なコミュニティに留まり、消失していった。

[編集] 反ユダヤ主義の歴史

ここでは主に制度的な反ユダヤ教主義を扱う。論争史については一文字下げるで示す。

[編集] 中世

[編集] 近世初期

[編集] 18世紀 - 19世紀(ユダヤ教徒「解放」の時代)

[編集] 啓蒙主義時代

[編集] フランツ・ヨーゼフ1世のユダヤ保護政策


ユダヤ教(ユダヤきょう、ヘブライ語: יהדות[1])は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(יהוה)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。ただしメシア思想は、今日ではハバド・ルバヴィッチ派などを除いて中心的なものとなっていない。 旧約聖書が重要な聖典とされる。

『タナハ』 (ヘブライ語ラテン文字転記:tanakh)、『ミクラー』 (miqra') とよぶ書を聖典とする。これはキリスト教の『旧約聖書』と同じ書物である。ただし、成立状況が異なるので、キリスト教とは書物の配列が異なる。イスラム教でも『モーセ五書』は『コーラン』に次いで重要視される。ユダヤ教では、この他にタルムードをはじめとしたラビ文学も重視する。

しかし、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教と違い、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視する[2]。例えば、ユダヤ教の観点からは、信仰を持っていたとしても、アミーダー・アーレーヌー・ムーサーフなどを含んだシャハリート・ミンハー・マアリーブを行わないこと、シェマア・イスラーエールを唱えないこと、ミクラーを読まないこと、食事の前とトイレの後の手洗いと祈りを行わないこと、戸口のメズーザーに手を当てて祈りを行わないこと、カシュルートを実行しないこと、タルムード・トーラー、ベート・ミドラーシュ、イェシーバー、コーレールなどミクラーとラビ文学の研究を行わないこと、シャッバートを行わないこと、パーラーシャーを読まないことなどは、ユダヤ教徒としてあるべき姿とは言えない。「信じるものは救われる」などという講義をするラビはとても考えられない。そのため改宗� ��も時間がかかり、単なる入信とは大きく異なる[3]

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が[4]」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。

" וַאֲהַבְתֶּם, אֶת-הַגֵּר: כִּי-גֵרִים הֱיִיתֶם, בְּאֶרֶץ מִצְרָיִם
寄留者(ゲール)を愛しなさい:あなた達がエジプトにおいて寄留者であったからである (ミツワー、典拠は申命記10:19)
"

すなわち、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。非ユダヤ人も神の下僕となり、神との契約を守るならユダヤ教徒になることができるとされる[5]。ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性がある[6]

一方、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤ人キリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによってもはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。これは民族の定義を血縁によるのか、宗教によるのか、「ユダヤ教」が「民族宗教」なのか、あるいは「宗教民族」ともいえるのか、といった問題につながる。

2012年4月8日日曜日


 

こちらでは、マザーテレサによって残された言葉をとおして、その愛と祈りの生涯を見て行くこととします。


1

この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。

 マザー・テレサ語る より

マザーテレサは、貧しい人々、病んだ人々を生涯にわたって愛し、助け続けました。

彼女のつくった「神の愛の宣教者会」は、「孤児の家」「ハンセン病患者の家」「死を待つ人の家」「結核患者、精神病者の家」等を運営し、常に貧しい人々の中のいちばん貧しい人々、病んだ人々、社会の人々から必要とされていないと感じるような立場におかれた人々を、今現在も愛し、助け続けています。


2

マザーは信仰の人でした。カトリックの修道女として生きた人でした。

すべての人は良心をもっていて

みんなそれに

従わなくてはならないのです

その愛は、宗教や宗派にかかわらず、世界中のすべての人に対して、注がれていたのです。マザーに対して当初偏見を持って見ていた他宗教、他宗派の人々も、マザーのすべての人々に対する献身する姿に心を打たれる事になりました。やがてあらゆる宗教、宗派の人々がマザーを理解して行きました。

もしあなたが謙虚であるなら

何ごともあなたの心を汚さないでしょう

もしあなたが聖人であるなら

神に感謝しなさい

もしあなたが罪人であるなら

そのままでいてはいけません

 

マザーは、信仰による真実に生きることを自ら実践し、人々にもその生活の場での、真実の実践を勧めました。

もし、経験がないならば、尋ねなさい

尋ねることは恥ずかしいことではありません

けれど、知らないことを、

知っているようなふりをするのはやめなさい

マザー・テレサ 日々のことば より


3

マザーの活動はインドのカルカッタで始まりましたが、やがて世界の多くの国々へと広がることになったのです。

考える時間を持ちなさい

祈る時間を持ちなさい

笑う時間を持ちなさい

 

それは力の源

それは地球でもっとも偉大な力

それは魂の音楽

 

遊ぶ時間を持ちなさい

愛し、愛される時間を持ちなさい

与える時間を持ちなさい

 

それは永遠につづく若さの秘密

それは神が与えてくれた特権

自分勝手になるには、一日は短すぎる

 

読書する時間を持ちなさい

親しくなるための時間を持ちなさい

働く時間を持ちなさい

 

それは知識のわき出る泉

それは幸福へつづく道

それは成功の価値

 

施しをする時間を持ちなさい

それは天国へと導く鍵

 

[カルカッタの「孤児の家」の壁にある看板より]

子どもたちを見るとき、マザーの顔は優しさと慈しみにみちていました。

すべての子どもたちが、この世に望まれて生まれてくる、とマザーは言っています。それは一人の例外もなくすべての子どもたちを意味していました。

マザーは、子どもたちは祈ることを学ぶ必要があると語りました。


4

私たちは、祈ることで誘惑に打ち勝つ強さを得るでしょう。

なぜなら、少しでも神に近づいた人間は、まわりにいる人たちに楽しさと愛を広めるからです。

この言葉は、なによりもマザー自身の体験をとおしての、祈りの果実を示しています。

それはとてもシンプルなものなのです。

私たちすべてが必要としているのは、祈ること、そして、他の人をもっと愛し始めることなのです。

マザーは、祈る事と人を愛する事が、すべての人に必要なものと言っています。

そして、祈るときに必要なものとして、沈黙をあげています。

だれにでも、沈黙し、黙想する時間が必要です。私はいつも沈黙のなかで祈りをはじめます。

神は静寂の友です−私たちは神の声に耳をかたむける必要があります。

祈りは魂を満たしてくれます。そして、人間は、祈ることで神に近づくことができるのです。

祈ることで、あなたは清らかで純粋な心を与えられるのです。

マザー・テレサ語る より


5

マザーは、心の静けさ(真の内面的な静寂)を得るために、次のようなことを上げています。

他人の過ちや、罪深いすべてのものに目を閉じ、神の美徳をさがす(目の沈黙)

ゴシップや告げ口、無慈悲な言葉等の声に耳をふさぎ、神の声や貧しい人の叫びに耳を傾ける(耳の沈黙)

暗さや動揺、苦しみを引き起こすすべての言葉をつつしみ、私たちを啓発し、鼓舞し、平安や希望や喜びをもたらす神の真理の言葉、イエスの言葉を口にする(舌の沈黙)

うそや混乱、破壊的な考え、軽率な評価、他人への誤った疑い、復讐心、さまざまな欲望などに精神を閉ざし、祈りと黙想において神の真理と知識に精神を開く(精神の沈黙)

すべての自分本位の考え、憎しみ、うらみ、ねたみ、欲ばりを避け、私たちの心、魂、精神、力において神を愛し、神が愛するように人を愛する(心の沈黙)

マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈りより

マザーは、心の静けさを保つことによって、神の声を聞く特権が与えられると言っています。


6

マザー(この呼び名は、修道女〈シスター〉の母、女性指導者の意ですが、彼女の場合には、その固有名詞として呼ばれています)は、世の人々に対して、彼女と同じことをしてほしいとは言いませんでした。ただ、それぞれの生活する所で、彼女と同じように祈る人、他の人を愛する人になってほしいと願っていたのです。

彼女は、祈ることはだれでも、いつでも、どこにいても出来ると言っています。

祈ることをたびたび勧めています。それを説く相手は、宗教、宗派を超えていました。マザー自身は、彼女の信仰する父(神)とイエス・キリストさらに聖母マリアに祈ることを実践した人でした。

すべての宗教は、永遠なるもの、つまりもうひとつの命を信じています。

この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人たちは、死を恐れます。

もしも、死は神の家に帰ることだと、正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです。

マザー・テレサ 日々のことば より

マザーは永遠なる命について語っています。死は終わりではない、正しい信仰を知って生きる人は死を恐れることはないと言っています。すべての人はやがてこの世の死を迎える事により、神(宗教、宗派を超えた父(創造主))の家(霊魂の世界)へ帰ると語っています。彼女の信仰は、祈ることによって成し遂げられました。

私の秘密をおしえましょうか。私は祈ります。キリストに祈るということは、キリストを愛することと同じなのです。

救われるためにどうしたらよいのでしょうと尋ねる人があったら、私の答えは「神様を愛することです。そして、何よりもまず祈ること」

キリストを知らない人が、真にキリストを知るようになることをマザーは願っていましたが、それに関連して、彼女はこの世のすべてのキリスト信者にとって大切な言葉を残しています。

キリスト信者と世間に認められていても実際には実行していない人は、キリストを知らない人がキリストに近づこうとする事をさまたげてしまうと言っています。

生涯を通して実践していたマザーの大切な言葉です。

ガンジーは、キリストのことを知った時、興味をいだきました。しかし、キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。

キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉だけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。

マザー・テレサ愛と祈りのことば  より


7

マザーは真の信仰(祈り)であれば、その人の祈りは、きっと受け入れられると話しました。

信仰が深まれば、いかなる宗教、階層、肌の色、国籍、貧富の差も存在しないとわかります。

 マザー・テレサより

マザーの信仰は、あらゆる宗教、宗派はもちろんあらゆる人種、社会的身分の人々を含むものでした。

すべての人々が必要としているのは、他の人々をもっと愛し始めることと言っています。

神様だけが、私たちの真の必要をご存知です。

愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です。

マザー・テレサ愛と祈りのことば  より

どんな小さいことであっても、大いなる愛を込めておこなうことは、人に喜びを与えます。そして人の心に平和をもたらします。

何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるか、、、 それが重要なのです。

2012年4月7日土曜日


   黄金伝説の聖アガタ譚からの引用は特記のないかぎり、人文書院前田敬作ほか訳1985年版訳から" "で抜粋した。解説は、各出典から該当箇所を《 》で引用している。

@ "乙女アガタは、貴族の出で、美貌にめぐまれ、カタニア市に住んでいた。そして、成徳をもって神をうやまっていた。"

 《アガタ1(注一)(Agatha)は、<神聖な>の意のagiosと<神>の意のtheosから来ていて、<神の聖女>という意味である。
 クリュソストモイス(1巻p35注20:)が言っているように、人を聖人にするものは三つあるが、そのどれもが、彼女に完璧にそなわっていたのである。
 その三つとは、こころの純粋さ、聖霊の臨在、あらゆる種類のみちあふれるほどの善行である。
 あるいは、Agathaは、a すなわち(・・・・なしに、を欠いて)とgeosすなわち<大地>とtheosすなわち<神>とに由来し、<大地なき女神>、つまり地上のものへの愛をもたない女神という意味である。
 あるいは、agaすなわち<話している>とthauすなわち<完成>とに由来し、 <完全無欠に話す女>という意味である。われわれは、そのことを彼女が拷問者に与えた返答に見てとることができる。
 あるいはまた、agatすなわち<しもべ>とthaosすなわち<上の>とに由来し、<天のしもべ>という意味である。彼女がそう呼ばれるのは、「最高の自由は、神のしもべであることです」と彼女は言っているからである。
 あるいはまた、agaすなわち<おごそかに>とthauすなわち<完成>とに由来し、<おごそかに完成された女>、つまりおごそかに埋葬された女という意味である。というのは、天使たちが彼女を埋葬したからである。 
 
 *クリュソストモイス(1巻p35注20:本名ヨハネス(ギリシャ語名ではヨアネス、344ないし345〜407)、聖人(祝一・27)、コンスタン� ��イノポリス総大司教、教会博士、東方教会最大の説教家としてその雄弁のため<黄金の口 クリユソストモス>のヨハネスと呼ばれる。
 主著「司教職論」六巻のほか聖書釈義(とくにパウロの手紙に関するものが250以上もある)、説教集、書簡(236通)などおびたたしい著作がある。 )「黄金伝説」 ヤコブス・ウォラギネ 人文書院 前田敬作ほか訳 1985年 一巻p394
第壱巻p35−36付注20より引用。 なお、上記の注[1]は、概要編を参照のこと。》

 

 nobody:聖アガタの解説を、黄金伝説の冒頭文の引用によって行うと、ラテン語による学問的探求と解釈がおこなわれます。ラテン語のわからない私にとって、語源の解釈、AVE(マリア様)をひっくりかえしたらEVA(アダムの妻のイヴ。「聖書 GOOD NEWS」では、アダムの肋骨から作られた女・妻で、禁断の果実・リンゴをたべて人類が「楽園」から追放された原因に寄与したとされる人物)のような中世の人がこのんだとされる「言葉の遊び」、あるいは、物語のイメージをふくらませるトレーニングというか、粗筋や重要語句解説の紹介にも最近思えてきました。師曰く、ここは、試験にでるから「マーク」するように。


A"シチリア州の総督クィンティアヌスは、生まれもいやしく、好色で、貪欲で、異教徒であったが、この高貴な乙女をなんとしてでも愛人にしたいと思った。
 彼女の身分の高貴さで自分のいやしい素姓たかめ、彼女の美しさを自分の好色の餌食にし、彼女の財宝を自分の貪欲を満足させるためにかすめとろうと思ったのである。
 おまけに、偽神たちの崇拝者であったから、彼女に無理やりのでも神々に供犠させようとした。彼はアガタを出頭させた。しかし、彼女の意志を変えることができないとわかると、アプロディシアという名前の女郎屋の女将といずれも罪ぶかい生活を送っているその九人の娼婦たちとにアガタをゆだねた。
 彼女たちは、30日間彼女の意志を変えさせようとつ� ��め、甘言やらおどしやらで彼女の善き意図を棄てさせようとした。 しかし、彼女は言った。
 「わたくしの気持は、かたい岩のうえにたてられ、キリストのなかにしっかりとつながれています。あなたがたの言葉も、わたくしには風のようなものにすぎません。あなたがたの約束ごとも、雨のようなものですし、あなたがたのおどしも、去りゆく流水のようなものでしかありません。どんなに誘惑されても、わたくしという家は、けっして崩壊しません。というのは、堅固な岩を土台にしているのですから」アガタは、毎日女たちにこう答え、泣き、祈り、殉教者の勝利の棕櫚を待ちのぞんだ。"


 《さらに、これらの物語には好色な動機があった。初期の物語では、ブランティーナやペルペトゥアに情欲を燃やした者は誰もいなかった。事実、ペルペトゥアとフェリキタスが裸にされて群衆の前に引き出されたとき、フェリキタスはまだ出産のために出血していたので、群衆は恐怖し、女性には苦難に際しても衣服を着ける尊厳が認められるべきだと懇願したのである。
 テクラの処女性の物語においては、期待されるように、好色の要素が強いが、神の干渉によって遮られた。十三世紀までには、処女の殉教は性的攻撃を受ける形で物語られるようになった。処女の殉教者が売春宿に投げ入れられるとい� ��仕方は、明らかに男性に人気があった敵対的な空想であった。時として、処女の殉教者たちの受難は、集団強姦のように描かれていた。 「キリスト教とセックス戦争ー西洋における女性観念の構造」(カレン・アーム・ストロング 柏書房 1996年 高尾利数 訳、p258)》


 nobody:まず、アガタの述べている「岩」とは、キリストの十二使徒の一人で初代教皇とされるペテロが石に比喩されることを下敷きにしたもので、「教会」を暗示していることなのでしょう。
 州の「総督」は裁判官も兼ねる地方行政長官のような重責ですが、そうとはいっても「徴税請負人」と大差ない当時の行政組織なのですから、成果主義であこぎに成功したものの、まあ、異教徒である以前に、女の子にもてそうな感じがしないセクシャル・ハラスメント男のように描かれていることは、カレン・ア
ーム・ストロング女史の言では、「お約束な展開」のための道具だてなのでしょうから、ノー・コメントとします� ��、アガタの身の上に、どういうことが実際にあったのかは、想像するしかありません。
 想像することの恐怖だけでなく、ジャンヌ・ダルクが一旦罪を認め、約束に反してイギリス兵の管理する牢獄に女の服でつながれ・・・(省略)・・・男の服を着た罪で再堕落の審問の際の記録に触れるに、死に急いでいるような感じを受ける言葉をジャンヌが発するよう
なことなる原因があったのかもしれません。「泣き」ということから判断して、女郎屋らしいことがあったのでしょうか。ローマの歓楽街のこと「サッフォ」の手練で女同士の禁断の愛欲にショックを起こしてしまい、泣いている「うぶな娘さん」なのかもしれません。
 なお、聖女アグネスでも紹介しましたが、黄金伝 説ことLEGENDA AUREAでのアグネスが「売春宿へ閉じ込める」という意味は、アグネスは売春宿で処女喪失し・・・・そして処刑との処女処刑のローマでの法習慣、つまり、「処女を処刑することは法により禁じられていたので、まず、死刑執行人や売春宿の商人がキリスト教徒の処女の花を散らして(deflower)から処刑される、あるは、結婚すると成人と看做されると同じ法理論で、 未成年の少女は「おとな」になってから処刑される」、とのニュアンスが隠されているようです。
 このところのローマ法の解釈はどうなっているのでしょうか。この後も自由ローマ人に対して拷問などというシーンが始まるのですが、ネロの時代、ペテロの「殉教」では彼は自由ローマ人であったので処刑においても磔ではなくローマ人らしい方法で刑が執行されていましたことと比較してローマはどうなってしまったのでしょう。護民官・弁護人、がんばってください。