Pastorまことの聖書一日一章 2 - Part 3
<朝のディボーション>
ツァラアトのきよめの儀式が丁寧に書かれている。ツァラアトは、罪そのものであるというわけではないが、罪の型として示されている。
ダビデがバテシェバとの関係で姦淫と殺人の罪を犯し、苦悩していた時に、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」(詩編51:7)と語ったのは、決して、この儀式とは無関係ではなかった。手に負えない、罪ののろいは、ツァラアトに苦しむことに重ね理解されるのである。
もちろん、ツァラアトばかりではない。人間を死にねじ伏せる病は皆、私たちに罪ののろいの何であるかを考えさせるものだろう。人間がいかに罪に対して無力� �あり、罪の故にすべてを失おうとしているか、その現実を思い知らせるのである。
ただ日本人は、そのような罪をなかなか感じることができない。しばしば罪は、恥とすり替えられてしまう。何か社会的に不名誉なことをした時に罪を犯したのだと考えてしまう。あるいは、人には知られたくない悪事が暴かれた時に、社会的な制裁を加えられるような事態に陥った時に、それを罪として感じるところがある。しかし、それは世間の目を気にし、世間の基準から外れてしまったことへの羞恥心であって、神の前に自覚し、悟らされ、自ら恥じ入る罪とは違う。だから、信仰を持って、クリスチャンとしての歩みをするにしても、常に気になるのは、神の目であるよりも、牧師の目であったり、他の信徒の目であったりで、人前での宗� ��的な体裁を整える程度の、人間的な次元での歩みに留まることがある。真に内実を変えていく信仰というのは、人の目を意識しているだけではだめで、神に出会うことなくしては不可能なのである。罪というのは、神の基準にそぐわぬこと、自らを神とすることにその本質がある。神の前における人間的な奢り、高ぶりがそうであって、それが、いかに私たちの人生を汚し、私たちの人間関係を破壊し、さらに、私たちの生産活動、慈善、奉仕の一切をだめなものにしているかに気づかねばならない。私たちが気づけば、私たちの人生が変わる。
<夜のディボーション>
罪人がきよめられる時の儀式に、キリストの十字架による救いの型があると言われる。土の器に入れた湧き水の上で小鳥のうちの一羽を屠るというのは、イエ� ��キリストの受肉、つまり神が人となられ、エルサレムの町の外、ゴルゴダの丘において、私たちの罪の赦しのために十字架にかかり、死なれたことの象徴である。また、もう一匹の鳥が、その血を受けながら空に放たれることは、キリストの復活の象徴である。
興味深いことに、宿営に戻された病人は、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえをささげることを許されているが、同時に、祭司の任職に似た儀式を受けるように定められている(14-20節)
祭司の任職においては、その血を祭司の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。それによって祭司は、いけにえと同一視され、罪人である自身に死に、新しく復活した者として奉仕することが象徴された。右の手は、力の象徴である。だから血 塗られた耳たぶは、神のことばを聞くために、同じく手は神の奉仕に携わるために、足は、主の庭を歩くために聖別されたことを意味していた。また油注ぎも、聖別のための聖霊のバプテスマを意味するものであって、それらは、主の奉仕者となすために、なくてはならないものであった。
きよいということは、品格が整えられる以上に、神の奉仕者としてふさわしくされる、ということだろう。品性のきよめを意識する者は律法学者がそうであったように、結局は自分を誇りとする罪の中に舞い戻ってしまうのである。しかし、神の奉仕者として自分が救い出され、きよめられたことを意識する者は、神に生きることを望みとする。罪から救い出されるということは、神のしもべとなり、神の有用な器となることである。宿営の交わ� �に戻されるということは、その人が、変えられた者となったからこそである。罪から立ち返った者であればこそ、変えられた者として、きよいと宣言された者として神に生きることを覚えて歩みたいものである。
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