2012年4月23日月曜日

Pastorまことの聖書一日一章 2 - Part 3


<朝のディボーション>
 ツァラアトのきよめの儀式が丁寧に書かれている。ツァラアトは、罪そのものであるというわけではないが、罪の型として示されている。
ダビデがバテシェバとの関係で姦淫と殺人の罪を犯し、苦悩していた時に、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」(詩編51:7)と語ったのは、決して、この儀式とは無関係ではなかった。手に負えない、罪ののろいは、ツァラアトに苦しむことに重ね理解されるのである。
 もちろん、ツァラアトばかりではない。人間を死にねじ伏せる病は皆、私たちに罪ののろいの何であるかを考えさせるものだろう。人間がいかに罪に対して無力� �あり、罪の故にすべてを失おうとしているか、その現実を思い知らせるのである。
 ただ日本人は、そのような罪をなかなか感じることができない。しばしば罪は、恥とすり替えられてしまう。何か社会的に不名誉なことをした時に罪を犯したのだと考えてしまう。あるいは、人には知られたくない悪事が暴かれた時に、社会的な制裁を加えられるような事態に陥った時に、それを罪として感じるところがある。しかし、それは世間の目を気にし、世間の基準から外れてしまったことへの羞恥心であって、神の前に自覚し、悟らされ、自ら恥じ入る罪とは違う。だから、信仰を持って、クリスチャンとしての歩みをするにしても、常に気になるのは、神の目であるよりも、牧師の目であったり、他の信徒の目であったりで、人前での宗� ��的な体裁を整える程度の、人間的な次元での歩みに留まることがある。真に内実を変えていく信仰というのは、人の目を意識しているだけではだめで、神に出会うことなくしては不可能なのである。罪というのは、神の基準にそぐわぬこと、自らを神とすることにその本質がある。神の前における人間的な奢り、高ぶりがそうであって、それが、いかに私たちの人生を汚し、私たちの人間関係を破壊し、さらに、私たちの生産活動、慈善、奉仕の一切をだめなものにしているかに気づかねばならない。私たちが気づけば、私たちの人生が変わる。
<夜のディボーション>
 罪人がきよめられる時の儀式に、キリストの十字架による救いの型があると言われる。土の器に入れた湧き水の上で小鳥のうちの一羽を屠るというのは、イエ� ��キリストの受肉、つまり神が人となられ、エルサレムの町の外、ゴルゴダの丘において、私たちの罪の赦しのために十字架にかかり、死なれたことの象徴である。また、もう一匹の鳥が、その血を受けながら空に放たれることは、キリストの復活の象徴である。
 興味深いことに、宿営に戻された病人は、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえをささげることを許されているが、同時に、祭司の任職に似た儀式を受けるように定められている(14-20節)
祭司の任職においては、その血を祭司の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。それによって祭司は、いけにえと同一視され、罪人である自身に死に、新しく復活した者として奉仕することが象徴された。右の手は、力の象徴である。だから血 塗られた耳たぶは、神のことばを聞くために、同じく手は神の奉仕に携わるために、足は、主の庭を歩くために聖別されたことを意味していた。また油注ぎも、聖別のための聖霊のバプテスマを意味するものであって、それらは、主の奉仕者となすために、なくてはならないものであった。
きよいということは、品格が整えられる以上に、神の奉仕者としてふさわしくされる、ということだろう。品性のきよめを意識する者は律法学者がそうであったように、結局は自分を誇りとする罪の中に舞い戻ってしまうのである。しかし、神の奉仕者として自分が救い出され、きよめられたことを意識する者は、神に生きることを望みとする。罪から救い出されるということは、神のしもべとなり、神の有用な器となることである。宿営の交わ� �に戻されるということは、その人が、変えられた者となったからこそである。罪から立ち返った者であればこそ、変えられた者として、きよいと宣言された者として神に生きることを覚えて歩みたいものである。

<朝のディボーション>
ツァラアトの診断と処置について。これは、新改訳の第二版までは「らい病」と訳されたもので、ツァラアトはヘブル語の音訳である。この疾患の典型的な症状は、「患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えている」こと、つまり毛の色の白色変化と患部のへこみにある。伝統的にこれは、新約聖書時代や中世のヨーロッパで大変な苦悩をもたらしたハンセン氏病のことであると解釈されてきたが、現代では否定されている。そのため、新共同訳では、「らい病」という言葉を避け、「重い皮膚病」と訳し、また、英訳聖書のNIVでは「伝染性皮膚病」(infectious skin diseases)と訳されている。確かに47節以降、このツァラアトという疾患は、人間に生じる病理的な現象だけを意味するのではなく、衣服にも壁にも出てくる症状なのである。
翻訳の難しさは、単純に、別の国のことばには置き換えられない、ことばの意味の幅があることだろう。まして年代差のあるものについては一層複雑で、現代の用語にそう単純には置き換えられない。そういう点から見ても、単純にハンセン氏病とは置き換えられないということにもなるのだが、かといって、「重い皮膚病」も苦しい訳である。「重い」というイメージがあるからだ。むしろ、「伝染性皮膚病」も、47節以降の衣服のツァラアトが、人間に伝染するとは考えられていないようであるから、これも難しい。大切な点は、人間にしろ、衣服にしろ、こ� �疾患が「拡大」、「浸潤」するということなのだろう。そういう意味では新しいことばかもしれないが、「浸潤性皮膚病」と言ってもよいのかもしれない。
 ともあれ13章は、このツァラアトと他の病気、火傷、疥癬、湿疹との区別について語っている。このような紛らわしい病との識別は、祭司の重要な役割でもあった。おそらく、疾患の診断はだれにでもできたことなのだろうが、決定的な診断は祭司の役割とされた。
<夜のディボーション>
 この浸潤性皮膚病に罹患した人は、「衣服を引き裂き」「髪の毛を乱し」「叫ばなければならない」(45節)とされる。それは、罪の罰として神から与えられる病、と考えられていたので、悲しみを表現するためである。彼らは死人と同じようにみなされ、宿営の外に暮さなくて� �ならなかった(46節)。
この個所を、ただ、こうした病理的な判断基準を述べていると読んでしまったら、それまでなのだが、神がその識別を教えられた象徴的な意味を汲み取ることもできるだろう。というのも、この病の性質は、罪の性質に通じるところがあるからだ。「皮膚に広がってきたら」とあるように、しばしば罪は一つ二つというものではなく、私たちの生活全体に浸潤し冒すものである。また、「彼は汚れているので、ひとりで住みその住まいは宿営の外でなければならない」とあるように、罪は人間関係を遮断し、共同体から人を追放してしまう性格を持つ。私たちのうちにある罪が、私たち自身を、また私たち自身の人間関係をも変えてしまうのである。 
イエスは、そのような罪人の私たちに哀れみを示し、私 たちの罪の赦しのために十字架にかかってくださった。本来ならば、宿営の外に、永遠に放り出されてしまうはずの、私たちが、神のあわれみの対象とされたのである。イエスは、人々が忌み嫌い、遠ざけたツァラアトの病人に、手を伸ばしてさわり、「私の心だ、きよくなれ」(マルコ1:44)と癒されている。ここに、不治の病、救いがたい罪の囚われの中にある人々に対する希望がある。
神のもとに行き、自分の罪の現実を知ることは、もはや終わりを意味するのではない。たとえその罪が浸潤性であり、一層根の深い絶望的な症状を呈しているものと判断されることがあっても、神にはこの罪を取り扱う力がある。神に近づくところに、新生の希望がある。いつでも、自分自身の問題を神に持ち来たって、神の取り扱いを受ける心� ��持ちたいものである。


コーラントップドイツübersetzung

<朝のディボーション>
 出産に関する規定が記載される。「女が身重になり、男の子を産んだときは、(あるいは女の子を産んだときは、)その女は、・・・汚れる」とされる。この汚れをどのように理解するのか。これは衛生的に、身体的に、また倫理的に汚れる、ということではない。むしろ、女が、これによってアダムとエバが受けた罪の呪いの中にあることを自覚する、ということだろう。神は女に言われた「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子どもを産まなければならない」(創世記3:16)
 子どもの誕生は喜ばしいことはあるが、女は苦しみの中で、自らが罪ののろいにあることを知り、さらにその子もまた、キリストによって永遠のいのちを受け継ぐことがなければ、罪� ��中に滅んでいくことを悟らされるのである。妻を真に愛する夫もまた、そのことを同様に悟るのであるから、こうして両親は、自らの救いと、子どもの救いを願って、祭司のところにいけにえを持ちきたり、取りなしを願う、ということになる。
 妊娠や出産が罪であるということはない。神は性を創造し、人に命じて言われた「生めよ、ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世記1:28)。私たちの性は、神の祝福である。しかし、私たちは、それによって、自らが「咎ある者として生まれ」(詩編51:5)、罪ある者として生み出されたことを知らなくてはならないのである。
<夜のディボーション>
 男の子の出産の場合には、母親の汚れは、家庭生活に関する限り、そ の子に割礼の儀式をほどこすべき日は八日となる。これは、アブラハムの例にならったものなのかもしれない(創世記21:4)。そして公の宗教的義務を果たすにあたって、彼女はそれからなおも、33日の間汚れたものとされる。また女の子を出産した場合には、その期間はいずれも倍にされている。それは身体的、または生理的な理由というよりも、社会的、実際的な理由によるものなのだろう。つまり、神は、男性優位となっている社会の中で、母親に、女の子のためにはより丁寧に世話をする時間を与えられた、とする考えや、さらに次の出産に備えて、母胎が十分な回復の時を持つようにされた、という考え、さらに、女の子が生まれた家庭では、夫は、次の子どもが男の子であることを願う時に、いくぶん、心理的なインターバルが� ��要であった、という考えがある。
 ともあれ、その後きよめのためのささげものが必要とされる。当時はどんなに貧しい者も、自分たちが神のきよめを受けていることを覚えるために、いけにえを持ち来たらなくてはならなかった。それによって自分たちが神の呪いの中から救いの中に入れられることを確信したのである。
 イエスの両親のマリヤとヨセフも同様にして、あがないのために、「山ばと一つがい、または家ばとのひな二羽」と定められたところに従っていけにえをささげている。イエスの両親は貧しい家庭であった。しかしその家庭もまた、神の呪いの中にあると同時に、神の救いへと招かれたのである。
 私たちは、罪の呪いの中にあることをまずよく知らなくてはならない。それは子どもも例外ではない。� �どもは、無邪気で悪に染まっていないと考えられることがある。だから自然に成長させ、自由な自己表現と自己実現に導くべきであると考えられることがある。しかし、人間は生まれながらの罪人であり、聖書によって導かれなくてはならない者であり、キリストの罪の赦しと救いを必要とするものである。
 もし、そのような人間観を親がしっかり持つならば、親は子どものために熱心に祈る者となるだろう。罪をもって生まれた子供が、キリストにあって聖霊の業として新生するように熱心に祈ることだろう。また、祈りつつ主の訓戒と戒めによってしつけられ育てられるように関わることだろう。イエスの両親もまた、そのような従順の第一歩を踏んだのである。まさに神は、そのような小さな従順さを用いて、ご自身がこの世� ��現れることを許された。神に大きなことを求めがちであるが、小さな日常性の中に、なすべき正しいつとめを忠実に淡々と積み重ね、罪の赦しと救いのめぐみを味わう歩みが大事なのだろう。主にあって、私たちは神ののろいから解かれ、救いの中に置かれている。感謝をもって歩ませていただこう。

 創世記が神の民としてのビジョンの提示であるとすれば、ビジョンに向かって出立するのが出エジプト記である。レビ記は、神の民としてのビジョンをいかに実現するかの第一歩として、神の民の考え方を形作る重要な一書になる。レビ記全体を見ていくと、捧げ物の規定(1-7章)、捧げ物を献げる祭司についての規定(8-10章)の後、11章ではまた新たな話題が提起され、以後どうも雑多な事柄が、羅列されていく印象である。しかしながら、1-17章と18-27章でははっきりとした趣旨の違いがあるとも言われる。前者は、礼拝と幕屋に関連し、犠牲によって神に至る道が描かれ、後者は、実践と行為に関連し、聖化によって神とともに歩む道が示されているという。つまり、前半は神に近づく者として聖俗を区別すること、いわば罪か らの汚れを扱い、後半は汚れを取り除かれた者のきよい生き方を扱うことになる。そういう流れからすると、この11章は、聖い食物を区別することを教えている。したがって11章以降は、出産(12章)、病(13-15章)、いけにえ(16章)において聖俗を区別すべきことが書いてある。
 まず食べてよい生き物の区別。四つ足の動物について言えば、ひずめが全く分かれ、反芻する動物だけ食べてもよいが、同じようにあごを絶えず動かし反芻する動物に見えても、らくだ、岩たぬき、野うさぎ、豚については食べてはいけないとされる。水中の動物は、ひれとうろこのある魚だけは食べてもよいが、うなぎ、貝、えび、かに、かき、かえるなどは食べられない。鳥の場合は、腐った肉を食べる猛禽類がだめである。羽があって四つ足で歩く� ��いうのは、いわゆる昆虫類を食用にしてはならないということになる。ここで私たちが原理原則として理解しておかなくてはいけない点は、ここで食用として区別されるものは、神にささげられるものだということである。つまりイスラエルの民は、神にささげられるものをもって食事として区別するように命じられているのである。
今日、私たちはあまりこういう区別を意識していない。日本人にとって豚もうろこのないうなぎも美味しい食べ物である。新約聖書も、こうした食糧の区別は、ペテロの幻にも見るように(使徒10章)あまり重要視していない。むしろ、新約聖書は霊的なものの区別に関心を向けている。パウロは語っている。「私は祈っています。あなた方の愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かに� ��り、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に充たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように」(ピリピ1:10-11)。霊的な識別力を働かせ、ことばや思い、行為、振る舞い、何にせよ、神にささげられるものをもって、自らのものとしていくことを教えていく。ユダヤ人が神にささげられるものをもって、食事としたように、神にささげられるものをもって、私たちの姿勢や生き方としていくことを覚えたいものである。
<夜のディボーション>
 後半24節からは、汚れをもたらすものに注意すべきことが語られる。端的にいえば死体であり、死体に触れ� ��ものは汚れている、ということになるのだが、これらの定めは、実際的には、保健衛生的な意図を持つものだろう。
 神の聖さに与るというのは、当時のユダヤ人にとっては、今日の私たちが保健衛生的なことと理解し、ほとんど宗教的な要素を感じない事柄に及んでいる。つまり、神の聖さに与るというのは、日常性の中でのことであって、それは、衛生面に気遣う事を含むのである。そういう意味では、信仰を持つととってつけたような信仰生活をしてしまうのが日本人である。付け足しの礼拝、付け足しの教会生活があるだけで、礼拝的な生活、キリストを中心とした生活があるわけではない。日常性と信仰性が融合しているのではなく、分離しているのである。
しかし信仰を持ったら、自分の生活全体を見直していくよう� ��したい。ただ礼拝が生活に加わった、教会での奉仕をするようになった、というのではなくて、食事をするにしても、家事をするにしても仕事をするにしても、根本的に私たちのあり方が変わって行くのが信仰を持つということなのである。日常性にあって、この人には確かに神がついておられる、とはっきりわかる考え方、生き方をさせていただこう。


聖書は証言について何を言っていますか?

<朝のディボーション>
 主へのいけにえは、主の命じられたとおりにささげられなくてはならなかった。しかし、アロンの子ナダブとアビフは、その命令に不従順となり、神の裁きを受けている。異なった火をささげたためである。聖なる目的のために用いられる火は、祭壇の火でなくてはならず、祭壇以外の火は「異なった火」と呼ばれた。なぜそのような火がささげられたのかは、わからない。しかし伝承では、8-9節で、祭司がぶどう酒と濃い酒を飲むことを禁ずることが定められているので、アルコールのせいであったのではないかと推測されている。アルコールの故に、神が定められた方法にそってなされべきことへの慎重さに欠き、それが裁きをもたらしたというわけである。
 こうして9章において、民の献身を� ��け入れた神の火は、10章において民の自己流の献身を裁く火となって現れる。実に、この自己流さが今日の私たちの問題でもある。ナダブとアビフの二の前になってはならないのだが、不注意にも自己満足的に、神を愛し、神に礼拝を捧げてしまうことはあるだろう。
 だが、後半、アロンと生き残っているエルアザルとイタマルの問題は、単なる不注意ではなく、意識的な問題、あるいは先入観に基づく問題であることに注意すべきだろう。16節、「モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した」とある。しかし、それはもう焼かれてしまっていた。問題は、罪のためのいけにえの血を聖所の中に携えた場合は、それらを焼却しなくてはならなかったが、そうでない場合は、その肉を、食べなくてはいけない、と規定され� �いたことを守らなかったことである。なぜそんなことが起こってしまったのか。このような悲しみの時に、酒によってこういう間違いを犯したとは考えられない。むしろ兄弟が神の裁きを受けた悲しみの時に、肉を食べることはふさわしくないと考えたが故ではないだろうか。それは人情的には理解できることではあっても、彼らは、いかなる場合にも、神が定められたとおりに祭司としての職務を果たさなくてはならなかったのである。
アロンは、「もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか」(19節)とモーセに問うたことに対して、モーセは「それでよいとした」(20節)とある。なすべき正しいことを認めたアロンに、神の是認があったと考えるべきなのだろう。
<夜のディ� ��ーション>
 大切なことは、神がおられるのであるなら、神ご自身の意思があり、期待があることをしっかりと認めることである。それは具体的にいえば、私たちの神に対する愛し方、神に対する礼拝の仕方、一つ一つに神ご自身の意思があるということだ。自分の思いを無視するような行為に、じっと我慢し続けるのは、つらいものがある。人格があるということはそういうことではないか。神もまた、無機質な存在ではなく、人格を有する存在であるとすれば、神ご自身の意思、思いというものがある。神の人格を認めればこそ、神の意思を尊重して神を礼拝する、ということがある。しかしながら、神の人格を認めない礼拝というものがある。自己流の礼拝、自己満足的な礼拝である。不注意にも、あるいは意識的、先入観的に 、神が望まぬ方法で礼拝をささげてしまう、現実というものが、私たちにもある。
 礼拝において重要な要素は、賛美、祈り、みことばに聞くこと、そして献げることである。賛美は、「霊の歌」と呼ばれる。求められるのは、耳に綺麗な賛美ではなく、信仰の賛美である。また祈りも、美辞麗句で塗り固められた、人に魅せる祈りではなく、霊からほとばしりでる信仰の祈りである。無骨であれ言葉数が少なかれ、心から取りなされる祈りである。またみことばを聞くというのは、みことば鑑賞であってはならず、それを行う決意と覚悟で聞かなくてはならない。今日のメッセージはよかった。つまらなかった。そんな劇場鑑賞のような聞き方ではなく、真剣に、神のことばに生きる思いをもって聴いていくことを、神は望んでおら� �る。献げることも同様でそれは心の業である。
神に従うということは、日々、神に教えられて、神のみこころにかなう歩みをすることに他ならない。一切の先入観、自己流を捨てて、聖書流の生き方を学んでいく。神の人格を尊び、神に献げられた歩みを心がけることが、信仰者のつとめなのである。

<朝のディボーション>
 八日目、七日間の祭司としての任職式を終えたアロンとその子らに対して、モーセが、実際に、罪のためのいけにえ全焼のいけにえ、そして和解のいけにえをささげるように命じた。そこでアロンは、祭壇に近づき、最初は自分のために、次に民のために、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげていく。
祭司として初めての職務遂行にあたり、彼らはことごとく、主が命じられたとおりにすべてを行っていく。「主がモーセに命じられたとおりである」(10節)「規定のとおりにそうした」(16節)、「モーセが命じたとおりに」(21節)と繰り返される。私たち信仰者のあり方にも、どこかそういう主の御命令どおりに行う、という歩みがあってもよい。しかし、あまりそ� �いうことは意識されずに、信仰生活は思いの通りになされているということがあるものではないか。礼拝に出席するにしても、聖書が何と教えているかということへの注意はあまり払われない。礼拝をどのように守るかということにしても、聖書が何を期待しているか、ということへの注意は払われない、ということはないだろうか。まして献げ物について言うならば、自分が神に献げる物について、どんな時に、どのように、どんな心を持ってということも考えずになしている、ということはないだろうか。
今日の信仰の危機は、そういう意味では、聖書を読みながら、聖書の語ることに注意しないところにある。聖書をななめ読みしているだけであって、一向に聖書の一字一句に注意を払い、読み解くという読み方はなされていな� ��ことである。そういう意味では、聖書の言葉が実に不注意に用いられている、ということがあろうかと思う。取り上げられている聖書のことばを読めば、確かにその通りであると思わされながらも、文脈からは切り離されている、ということがあったりする。聖書が命じていることに注意を払い、それをしっかり行うことに意を注いでまいりたいものである。
<夜のディボーション>
そこに主の栄光が現れる(レビ9:6)。実際に「主の栄光が民全体に現れ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した」(23,24節)とある。一読、神の恐ろしさを思わされるところである。実際のところこの章における趣旨はそこにあったかもしれない。しかし「主� �栄光が現れるため」というのは、「神が確かにあなた方の中におられると言って、ひれ伏して神を拝む(1コリント14:25)」ことが起こることだろう。礼拝を行うことにより、確かにここには主がおられる、と主を認めることが起こる、主にひれ伏して神を拝むことが起こってくる、ということである。
だからそれは、恐ろしさを持って神を認める以上の意味がある。かつてヤコブは、自らの過ちの故に、家を追い出される結果になった際に、べテルで一夜をあかしたことがあった。ヤコブはそこで夢を見て、神の祝福を受けて、語られる。「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(� ��世記28:15)。ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった」と告白している。つまり、神の栄光を見るというのは、神が祝福の神として、望み無き罪人である私たちに向かい合っておられることを知ることにある。
実際、「全焼のいけにえを焼き尽くす」(24節)というのは、私たちの心からのささげ物と献身を神が受け入れたことを意味している。罪の深みにあることを嘆き悲しみ、悔い改めの内に救いを願う者に、神は、裁きの神ではなく、祝福の神としてご自身を現わされる。神が命じられた通りに行い、献げ物により、悔い改め、新しい献身を示す私たちの心を神は受け入れ、導かれるのである。
神は、祝福の神であって、永遠に私たちの歩みに寄り添う神である。この神 の故に、私たちはあらゆる期待を人生に持つことができる。私たちの礼拝のただ中に、祝福される神がおられることを人々が認めることができるように歩ませていただこう。


私の思考はあなたの考えではありません

<朝のディボーション>
8章から10章までがまた大きな区切りとなる。1~7章は、いけにえについての定めるものであり、8~10章は祭司の任職の実際が述べられる。これは、いけにえによって神に近づくことができるだけではなく、祭司として任職され、聖別され神の器として用いられる祝福を語るものだろう。今日は、神を信じる者すべてが祭司として召されているのであるから、8章は、私たちにとっても重要な真理を教えている。
第一に任職のための招集(1-5節)。祭司の聖別と任職は、主の前と民の代表者の面前で行われる。それゆえ、第二に水。「モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った」(6節)とされる。水の洗いは、今日で言えば水と御霊のバプテスマを象徴するものだろう。パウロは言う。「 あなた方の中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」(1コリント6:11)。
次に祭司にふさわしい着衣。「モーセはアロンに長服を着せ、飾り帯を締めさせて、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着けさせた。次に、モーセは彼に胸当てを着けさせ、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた」(7-9節)パウロは、私たちに、霊的武具を身に付けるように勧めている。「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべて� ��ものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:14-17)霊的な務めのために、霊的な装備が必要というわけだが、ユダヤの祭司制度に親しんで育ったパウロにとっては、万人祭司の真理に到達した際に、神に近づくための、神の聖なる奉仕をなすための装束が、私たちには必要であることを考えていたのではあるまいか。パウロは、神の奉仕を聖なる神殿に仕えるのみならず、福音を世界に広く告げ知らせる聖なる任務を意識して、聖なる装束をもっと霊的に、もっと積極的にイメージした部分があるだろう。
<夜のディボーション>
だから第四に、聖なる務めにおいて重要視さ れるのは、油に象徴される聖霊である。イエスは言われた「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」私たちは、イエスの油注ぎによって私たちは聖別され、神の用を果たす者とされる。
第五に、罪のためのいけにえと全焼のためのいけにえ、そして任職のいけにえによる職務への聖別である。任職のいけにえには、明らかに、罪のためのいけにえと全焼のためのいけにえと違う手順によってなされている。それは、雄羊の頭の上に手を置くだけではない、その血を祭司の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。これは、祭司といけにえと同一視し、罪人である自身に死んで、新しく復活した者とし� �の奉仕を象徴するものである。血塗られた耳たぶは、神のことばを聞くために、血塗られた手は神の奉仕に携わるために、血塗られた足は、主の庭を歩くために、すべてが聖別されることを象徴する。今日の私たちは、イエスの血の注ぎを受けている。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(1ペテロ1:18,19)とペテロが語るように、イエスの血の注ぎを耳たぶ、手、足に受け、神の聖なる職務に召し出されている。
そして最後に再び、油注ぎを受ける。これらはすべて出エジプト記に記されたことの想起である(出エジプト28:41、29:4-7、19-28)。聖別のための信仰告白に� �づくバプテスマ、霊的な着衣、聖霊の注ぎ、キリストの十字架による聖別、すべてが、私たちを主の奉仕者となすために、なくてはならないものである。であるから、今これらを受けているならば、自分が主の祭司として聖別されてあることをしっかりとわきまえる必要もある。私は何のために、今日の一日を過ごそうとしているのか。私たちもまた主の祭司として、立てられていることを覚えて歩ませていただこう。

<朝のディボーション>
 罪過のためのいけにえ、和解のいけにえについては、すでにそれぞれ、4、5章でその捧げ方が述べられている。ここではその繰り返しがなされているようであるが、いくつか新しく補足されていることもある。というのは、すでに4,5章において、罪のためのいけにえの血は、祭壇の角に塗られ、その土台に全部注がなくてはならないと説明されている(4:25、30、34、5:9)。しかし罪過のためのいけにえについては、その血をどうすべきかは語られていない。そこで、血は、「祭壇の回りに注ぎかけなければならない」(7:2)と明言されている。また、祭司がそれらをどうすべきか、ということが補足説明されている。罪過のいけにえは、祭司が食べることができる、祭司のものになる、と。
 次に11節 からは、和解のためのいけにえであるが、和解のためのいけにえについては、さらに三種類の目的が区別されていたと言える。感謝、請願、そして任意(自発)、つまり進んでささげるためのものである。請願を目的とするというのは、苦難の中にあってなされた誓いを完了させることを意図してささげられるもので、任意は、いつでも願いや祈りと共にささげられるものである。そういう意味で、今日の貨幣経済の現状においても、自分が毎週ささげるものが、感謝、請願、任意のどのような目的でなされているか、ということを覚えながら捧げるということは重要なことである。やはり信仰は心を使うことである。毎週日曜日に、おもむろに財布からお金を取り出して、献金袋に入れるというのではなくして、パウロが教えるように週� ��に備えて捧げるということはもちろんのこと、備えたものを、感謝として捧げるのか、請願として捧げるのか、あるいは任意の進んで捧げる捧げ物とするのか、細やかな意識と自覚をもって、捧げるということが、主を喜ばせる心遣いのある行為になるのではないか。
なお感謝を目的とする場合は、ささげた日のうちに食べなければならないが(15節)、誓願または任意を目的とするならば、翌日に食べてもよいとされる(16節)。また食べ残された分は焼かなければならないという。これは、物惜しみせず、人々をもてなすように勧めるためであったとされる。しかしそのようにすることが、感謝の深さにも表されるのだろう。
<夜のディボーション>
罪過のいけにえに続いて和解のためのいけにえが語られる順序に注目すべ� ��である。罪過のいけにえは、私たちが引き起こした複数の罪について、その償いをするものであって、そこには明らかに十字架によるキリストの贖罪が予表されている。一方和解のいけにえは、キリストにおいてなされた完全な贖罪から生じた神との交わりの回復について象徴するものであり、神はこのいけにえによってなだめられ、人と和解し、平和が実現する。そこに人は感謝と喜び、そして誓願を表すということになるだろう。
私たちが、自らの罪を自覚する時に、初めて私たちはキリストの十字架へと心を向けていく。罪を自覚するだけでは救いはない。自分をいじいじ苛め抜いてしまうだけである。罪を自覚する時に、この罪を赦してくださる方を見上げない限り、そこに平安と安堵と喜びは生まれてこない。聖書の戒めは 私たちに罪を自覚させるが、それと同時に、キリストを指し示し、そこに救いがあることを告げ知らせるのである。つまり福音が語られている。キリストが十字架において、私たちの罪のために死なれた、私たちの罪を負われた、という事実が、キリストを必要とする理由である。そしてキリストを信じ、キリストをいけにえとして携え、神の前に立つ時に、私たちの心は安らぎ、罪赦され神と和解したのみならず、神の祝福の子とされた無尽の恵みを覚えることによって、感謝と喜びにあふれることになる。そこで私たちは、和解のいけにえを次にささげることになる。
罪過のいけにえ(キリスト)に続いて和解のいけにえ(感謝、誓願)をささげる。この順序は自然なものとして大切にされなくてはならない。感謝、誓願に乏しい� �は、キリストにある罪の赦しの深さを味わっていないためなのだろう。「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)とイエスは語った。自らの罪をではなく、自らの罪の赦しの深さを覚えることにしよう。そこに、神に生きる心からの信仰と従順が生じるからである。


<朝のディボーション>
主は、罪過のためのいけにえについて語った後、全焼のいけにえについて再び語る。全焼のいけにえは、主に対する献身の姿勢を表すものであったが、それは、一晩中「朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。」(9節)と語られている。また、「祭壇の火は、燃え続けさせ、それを消してはならない、かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい」(12節)と勧められる。
確かに、神に対する献身というものは、思い出した時にではなく、持続的、習慣的なものでなければならない。ことに、民を代表する祭司が、朝ごとに、夕ごとに、新しい献身を意� �する犠牲動物をささげるためにたきぎをくべ、火の勢いを増し加えたように、牧師の第一の務めは、継続的、また習慣的に、教会に集う信徒のために、また世のために、祈りをささげること、祈りの薪を整え、炎を赤々と強めることである。
しかしながら、今日は、万人が祭司であると教えられている。ペテロは言う。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司」(1ペテロ2:9)であると。つまり朝毎に霊の熱意を燃やし、祈りの炎を熱くするのは、牧師だけの務めではない。信徒一人一人がそのように期待されているのである。
パウロは「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ12:11)と語ったが、毎日、献身の思いを鈍らせ、祈りを減じる一切のものを取り除き、霊の炎を燃やす。こうした営みなくして、いかに信仰の成 長の歩みがなせようか。またいかに、自らも、他人をも救うことができようか。私たちは、信仰を持つと「救われた」と完了したような言い方をする。しかし、実際には、救いのプロセスが始まっただけであり、救いは完成しているわけではない。パウロも、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(ピリピ3:12)と語っている。救いは永遠の約束であって完全であることに間違いはないが、同時に、未完成であるという自らの救いの現実を謙虚に受け止め、朝ごとに、主の前に立ち、主の祝福を自らの内に、また主にある兄弟姉妹の内に祈っていくことは、当然の務めなの である。
<夜のディボーション>
キリストは、朝まだ暗い内に起きて祈ることが常であった。また、ダビデも語る。「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩篇5:3)私は牧師として、信徒のために多くのことはできないと思っている。どういうわけか様々な責任を負わされるところがあり、不思議なことにそれぞれ助け手が与えられ、何とかそれぞれの働きを維持できてきたところがある。しかし、種々の組織の責任を負う以上に、関わる一人一人の魂に触れていくこと、養っていくことが、主の羊飼いとして立てられた第一の務めなのだと考えている。その時に、忙しさの中でどのようにその責任を果たすのか、と言えば、こうして朝毎にみことばを語り掛 け、祈ることに力を注ぐことなのだと理解している。牧師が毎礼拝後に信徒一人一人に気配りをし、声をかけ、お世話をするなど、会衆が10人を超えたら難しくなる。声をかけた人、かけそびれた人が必ず出てくる。誰かにお世話をして、誰かに手薄になるということが起こってくる。しかし、イエスが語るように、農場を任された農夫は、多くの収穫のために、朝毎に、畑に出てみ言葉の種をまく。聖霊の光と水が注がれることに心を配ることでその責任を果たし、「そうこうするうちに、種は芽を出して育つ」(マルコ4:27)のである。
エジプトを脱出したイスラエルの民は、こうして主に教えられたことを実践する中で、イスラエルの民としてのあり方を築き上げていった。彼らは神の民であることを明確にするために、全焼のい� �にえをささげた。また、神の民であり続けるために罪や罪過のためのいけにえをささげた。今日も主が一人一人の献身と祈りを祝されるように。今日も主にある兄弟姉妹が、心を一つにして、神の民として、自らの歩みを進めることができるように、祈り願うものである。そうこうするうちに、一人一人の成熟が導かれ、教会そのものも建てあげられていくのだから。「霊に燃え、主に仕えよ」とパウロも言う(ローマ12:11)。


<朝のディボーション>
 最初の1-13節は、4章の続きであり、「罪のためのいけにえ」の規定である。1-6節は、罪の具体例が語られる。1節、証人として立つ立場にありながら証言しない場合、ある意味で故意の罪である。2、3節、汚れたものに触れた場合、この場合は、無意識、故意双方について罪の赦しが語られる。4節は面白い。調子のよさ、というべきか、不注意な発言について。大切なのは、罪に気づかされたことがあれば、即告白しなさい、そして罪の贖いをしなさい、と教えられていることだろう。神は、いつまでも罪を反省していなさい、十分悩み、自分の犯した罪の深さを覚えていなさいとは言われない。むしろ気づかされたら告白し、罪の贖いをしなさいい、と勧められる。合理主義的にも感じられるが、神が、� ��心をもっておられるのは私たちのこれからなのだと言えるだろう。だから罪に気づかされるなら、いつでも私たちは祈らねばならない。「主よ、私はあなたの前に罪を犯しました。この罪を赦してください。この罪の責めから私を解放し、癒してください。生まれながらにしてこの罪の中にある、私の心を全く新しくし、私を新しい歩みへと導いてください」と。神は赦してくださるお方である。
7-13節は、いけにえの例外について語っている。ここで注意すべきことは、罪のためのいけにえは、貧しい者も捧げられるように示されている点だろう。鳩を買う余裕のない者は、小麦粉でこれに換えることができるとされている。小麦粉は、極貧者の場合のみに例外的に許されることであり、油、乳香は添えられない。それは、穀物のさ� �げ物と区別されるためであるが、こうしてすべての人は罪のためのいけにえをささげ、罪赦される特権に与る。
だから罪に気づかされた時には、いつであれ罪を告白し、十字架のキリストを指し示すべきである。罪というのは、よく知っている戒めを故意に犯すことばかりではない。私たちが後で罪だと気づくことはいくらでもあることだし、それが人生何十年も経ってから気づかされる、ということもある。しかしそうであっても、自らの姿勢を改めることに、遅すぎることはない。いつでも、神のいけにえを持ち寄り、悔い改めることが大切で(1ヨハネ1:9)、神はすべての罪を赦してくださるのである。
<夜のディボーション>
続く14節からは、6:7までが一区切りで、「罪過のためのいけにえ」の規定となっている。罪の� ��めのいけにえと罪過のためのいけにえにどんな違いがあるのか。実際には、ほとんど同義であり区別は難しいとされるが、ヘブル語の原語では、ハッタースとアーシャームと異なっている。あえて区別するならば、それぞれ、神に対する償いと隣人に対する償いを意味するのだろう。だから、15節、罪過のためのいけにえには、雄羊のみならず、数シェケルの銀もまた加えられる。
そこで私たちが覚えなくてはならないのは、イエス・キリストの犠牲がいかに尊いものであったかということである。罪は、人を傷つける。最初に生まれた傷のない小羊が殺され、その血が祭壇に注がれるというのは、大変悲しい経験であったはずだ。しかし人は、その悲しさを通して、人間の罪の恐ろしさと、血を流す犠牲なくして、罪の償いはないこ� ��を学ばせられたのである。それほどに罪は人を傷つけ、悲しむものであったわけだ。しかし、神の子キリストが、本当の小羊として十字架にかかり、人々を罪から救うために血を流してくださった時に、人々はその悲しさを通して、罪の赦しの深さを覚えさせられたのである。それは、今の私たちも同じである。キリストがささげられたことへの悲しさをもって罪の赦しとされる。今や、このキリストの業の故に、人は毎年小羊を殺す必要がなくなってしまったが、それほどに、キリストのなさった業は大きかったということだろう。
神は、いつまでも罪に悩んでおらず、即告白し、悔い改め、キリストの十字架のもとに来たれとは言うが、罪の赦しそれ自体はそんなに簡単なものではなかった。簡単に、イエスの十字架の罪の赦しを 考える所に、やはり、罪の自覚の弱さ、罪の赦しの恵みに対する感覚の深さに欠けているのだろう。いのちの犠牲の深さ、それは、数シェケルの銀には置き換えることのできないものである。イエスが私たちのためにしてくださったことの偉大さをしっかりと覚えたいものである。その恵みの深さを覚え、神の罪の赦しの内に希望を抱いて歩ませていただこう。



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