2012年4月30日月曜日


1A 罪と汚れの清め 13
   1B 偽預言者の除去 1−6
   2B 試される民 7−9
2A 着座される王 14
   1B 高められるエルサレム 1−11
      1C 立たれる主 1−5
      2C すべての王 6−11
   2B 主の宮への参拝 12−21
      1C 敵の間の恐慌 12−15
      2C 仮庵の祭り 16−21

本文

 ゼカリヤ書13章と14章を学びます。ついにクライマックスが来ました。ここでのメッセージ題名は、「主が来られる」です。

1A 罪と汚れの清め 13

 13章は、12章の終わりの続きになります。エルサレムの住民のために戦う主を彼らが見たら、それは先祖が突き刺したイエスでありました。それで彼らは、とてつもない罪を犯したことで激しく泣きます。その嘆きは、イスラエルの指導層、そして一般の人々、あらゆる人々に及び、しかも、家族の中でも一人ひとりが個人的に泣き、表面的ではない、徹底した霊的覚醒が起こります。

 13章はその後の続きです。

1B 偽預言者の除去 1−6
13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

 1210節に、主が御霊を彼らの上に降り注がれることが書かれています。その注ぎによって、彼らはメシヤがイエス様であることを悟るのですが、それにともない、罪と汚れを清める泉も開かれます。もちろん、この泉はキリストご自身です。キリストが流された血が彼らの心にも注がれます。こうして彼らは、今私たちが経験する御霊による新生を経験するのです。

 御霊の洗い清めについては、例えばテトスへの手紙にこう書かれています。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5」また、コリント第一6章11節には、「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」とあります。

 イエス様がこの御霊の新生についてお語りになった時、ユダヤ人指導者のニコデモは理解できませんでした。「どうして、そのようなことがありえるのでしょう。(ヨハネ3:9」と答えています。そこでイエス様は尋ねられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(同10節)」イスラエルの教師であれば分かって当然のこと、そうです、旧約聖書の中にこのことがしっかりと書かれているのです。

 エゼキエル書36章を開いてください。エゼキエルは、36章からイスラエルが回復する幻を見ます。36章には、彼らが土地に戻ってくることの約束が、37章には彼らの国が再び建てられることの約束、そして38章と39章には周囲の敵がイスラエルを攻めるが、神が介入してくださり、彼らが救われる約束です。それぞれの約束で、最後に、「わたしは彼らをきよめる」という約束も神は与えてくださっています。

 その一つを見たいと思いますが、3625節からです。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25-27節)

 ここで大事なのは「」です。私たちは自分の行ないを改めようと思っても、心が堕落しているので罪を犯さざるを得なくなっています。けれども神がご自分の霊によって私たちの心、そして霊を新しくしてくださるなら、私たちは神の命令に従うことができるようになります。それはもはや、その側の律法の行ないではなく、神を個人的に知っている愛の関係のゆえに可能となります。

 今度はエレミヤ書31章を開いてください。ユダが堕落してしまい、もう神に従っていくことはできないと神は判断されました。それでユダをバビロンに捕え移されることを決められましたが、けれども神は、新たな約束を与えてくださっています。「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・

 神は、「新しい契約」と呼ばれています。新約聖書という言葉はここから来ていますが、イエス様が最後の晩餐において弟子た ちに杯を回された時、「これは、あなたがたのために流される新しい契約の血です。」と言われました。イエス様は、ここのエレミヤの預言のことを思いながら、そうお語りになったのです。

 どうして、「新しい契約」と呼ばれているのでしょうか?その前に契約があるからですね。それがシナイ山のところで主がイスラエルの民に与えられた契約であり、律法に基づくものです。けれども、イスラエルの民はずっと律法に背きつづけ、今、戻ることができない所まで来てしまいました。続けて読みましょう。

 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(以上31-34節)」モーセは二枚の石の板をもってシナイ山から降りてきました。けれども律法やもはや、石に刻まれている文字ではなく、心に刻まれるのだ、と言われるのです。先ほどのエゼキエルの預言と同じです。

 そのため、どう書いてありますか?「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」です。もはや、律法と言う規則を守って主とつながろうとする主人と僕の関係ではなく、妻が夫を知っているように、子が父を知っているように、個人的な、人格的な関係に入るのです。

 そして神様は、罪の完全な赦しを宣言してくださっています。もう思い出さない、とまで言われます。「でも神様は、私はこんなに酷い罪を犯しんですよ!」と訴えても、「何 それ?」と言われるだけです。もう二度と思い出さないのですから。

 このように、すばらしい御霊の新生がイスラエルの人々に与えられます。

13:2 その日、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは、偶像の名をこの国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。

 偶像と偽預言者らが取り除かれます。まず偶像についてですが、既に10章2節で偶像がイスラエルに終わりの時に至るまで存在することを見ました。現代のイスラエルにも、偶像はたくさんあります。実際に東洋神秘に凝っている人々は多いし、また不品行も充満しています。イスラエルでは、売春は合法、中絶も部分的に認められており、異邦人の国と何ら変わらない状況です。

 そして終わりの時にも偶像があります。黙示録9章には、底知れぬ所から出てきたいなごのような、さそりの毒をもつ悪霊に苦しめられ、そして二億人の軍隊が世界の人々を殺しますが、それでも「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(20-21節)」とあります。

 そして何よりも、獣、反キリストの国そのものが偶像礼拝です。反キリストが聖所の中に入り、自分こそが神であると宣言し、そしてもう一匹の獣が獣を拝むように仕向けます。獣の像を作り、その像がものを言うようにさせ、この像を拝まないものは殺しました。

 そして偽預言者です。偽預言者と「汚れの霊」が共に語られていますが、これは偽りの教えには、必ず悪霊がその背後にいるからです。パウロが言いました。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(1テモテ4:1

 そして偽預言者らが、終わりの時、特に大患難の時に、イスラエルの残りの民を惑わすことをイエス様は警告されました。「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。(マタイ24:23-24」これも、今のイスラエルはあらゆるカルトを受け入れている現状を見ると、その徴候を見るのです。けれども、彼らが殺されます。

13:3 なお預言する者があれば、彼を生んだ父と母とが彼に向かって言うであろう。「あなたは生きていてはならない。主の名を使ってうそを告げたから。」と。彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう。

 これは申命記に書かれている戒めです。偽預言者は殺されなければいけないのですが、それが家族の間から出てきたら、その家族が殺しなさいという命令です。「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならな� ��。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。(申命13:6-9

2012年4月28日土曜日


4月8日はイースターですね。特別にうちは何するってわけではありませんが、あちこちでウサギや卵型のお菓子が売られているのし、イースターのお楽しみにしようと思って、少しずつ買い足してます。

イースターは、十字架にかけられて死んだキリストが、復活したことをお祝いする行事なので、再生の象徴である卵、そして多産・繁殖力の象徴であるうさぎがよく使われます。キリストは3日目に生き返ったので、イースター前の金曜日はキリスト受難のグッドフライデー。

そしてイースターそのものは、もともとはユダヤ教のPassover(過越し祭)からきています。この時期はイースターを祝うクリスチャンと、パスオーバーを祝うユダヤ人で混ぜ返しているわけですね。

Passoverは、神に導かれたモーゼが、奴隷であったユダヤの民を解放し、エジプトから脱出し、晴れて自由の身となったことをお祝いする行事です。

2012年4月26日木曜日


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2012年4月25日水曜日


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2012年4月23日月曜日


<朝のディボーション>
 ツァラアトのきよめの儀式が丁寧に書かれている。ツァラアトは、罪そのものであるというわけではないが、罪の型として示されている。
ダビデがバテシェバとの関係で姦淫と殺人の罪を犯し、苦悩していた時に、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」(詩編51:7)と語ったのは、決して、この儀式とは無関係ではなかった。手に負えない、罪ののろいは、ツァラアトに苦しむことに重ね理解されるのである。
 もちろん、ツァラアトばかりではない。人間を死にねじ伏せる病は皆、私たちに罪ののろいの何であるかを考えさせるものだろう。人間がいかに罪に対して無力� �あり、罪の故にすべてを失おうとしているか、その現実を思い知らせるのである。
 ただ日本人は、そのような罪をなかなか感じることができない。しばしば罪は、恥とすり替えられてしまう。何か社会的に不名誉なことをした時に罪を犯したのだと考えてしまう。あるいは、人には知られたくない悪事が暴かれた時に、社会的な制裁を加えられるような事態に陥った時に、それを罪として感じるところがある。しかし、それは世間の目を気にし、世間の基準から外れてしまったことへの羞恥心であって、神の前に自覚し、悟らされ、自ら恥じ入る罪とは違う。だから、信仰を持って、クリスチャンとしての歩みをするにしても、常に気になるのは、神の目であるよりも、牧師の目であったり、他の信徒の目であったりで、人前での宗� ��的な体裁を整える程度の、人間的な次元での歩みに留まることがある。真に内実を変えていく信仰というのは、人の目を意識しているだけではだめで、神に出会うことなくしては不可能なのである。罪というのは、神の基準にそぐわぬこと、自らを神とすることにその本質がある。神の前における人間的な奢り、高ぶりがそうであって、それが、いかに私たちの人生を汚し、私たちの人間関係を破壊し、さらに、私たちの生産活動、慈善、奉仕の一切をだめなものにしているかに気づかねばならない。私たちが気づけば、私たちの人生が変わる。
<夜のディボーション>
 罪人がきよめられる時の儀式に、キリストの十字架による救いの型があると言われる。土の器に入れた湧き水の上で小鳥のうちの一羽を屠るというのは、イエ� ��キリストの受肉、つまり神が人となられ、エルサレムの町の外、ゴルゴダの丘において、私たちの罪の赦しのために十字架にかかり、死なれたことの象徴である。また、もう一匹の鳥が、その血を受けながら空に放たれることは、キリストの復活の象徴である。
 興味深いことに、宿営に戻された病人は、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえをささげることを許されているが、同時に、祭司の任職に似た儀式を受けるように定められている(14-20節)
祭司の任職においては、その血を祭司の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。それによって祭司は、いけにえと同一視され、罪人である自身に死に、新しく復活した者として奉仕することが象徴された。右の手は、力の象徴である。だから血 塗られた耳たぶは、神のことばを聞くために、同じく手は神の奉仕に携わるために、足は、主の庭を歩くために聖別されたことを意味していた。また油注ぎも、聖別のための聖霊のバプテスマを意味するものであって、それらは、主の奉仕者となすために、なくてはならないものであった。
きよいということは、品格が整えられる以上に、神の奉仕者としてふさわしくされる、ということだろう。品性のきよめを意識する者は律法学者がそうであったように、結局は自分を誇りとする罪の中に舞い戻ってしまうのである。しかし、神の奉仕者として自分が救い出され、きよめられたことを意識する者は、神に生きることを望みとする。罪から救い出されるということは、神のしもべとなり、神の有用な器となることである。宿営の交わ� �に戻されるということは、その人が、変えられた者となったからこそである。罪から立ち返った者であればこそ、変えられた者として、きよいと宣言された者として神に生きることを覚えて歩みたいものである。

<朝のディボーション>
ツァラアトの診断と処置について。これは、新改訳の第二版までは「らい病」と訳されたもので、ツァラアトはヘブル語の音訳である。この疾患の典型的な症状は、「患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えている」こと、つまり毛の色の白色変化と患部のへこみにある。伝統的にこれは、新約聖書時代や中世のヨーロッパで大変な苦悩をもたらしたハンセン氏病のことであると解釈されてきたが、現代では否定されている。そのため、新共同訳では、「らい病」という言葉を避け、「重い皮膚病」と訳し、また、英訳聖書のNIVでは「伝染性皮膚病」(infectious skin diseases)と訳されている。確かに47節以降、このツァラアトという疾患は、人間に生じる病理的な現象だけを意味するのではなく、衣服にも壁にも出てくる症状なのである。
翻訳の難しさは、単純に、別の国のことばには置き換えられない、ことばの意味の幅があることだろう。まして年代差のあるものについては一層複雑で、現代の用語にそう単純には置き換えられない。そういう点から見ても、単純にハンセン氏病とは置き換えられないということにもなるのだが、かといって、「重い皮膚病」も苦しい訳である。「重い」というイメージがあるからだ。むしろ、「伝染性皮膚病」も、47節以降の衣服のツァラアトが、人間に伝染するとは考えられていないようであるから、これも難しい。大切な点は、人間にしろ、衣服にしろ、こ� �疾患が「拡大」、「浸潤」するということなのだろう。そういう意味では新しいことばかもしれないが、「浸潤性皮膚病」と言ってもよいのかもしれない。
 ともあれ13章は、このツァラアトと他の病気、火傷、疥癬、湿疹との区別について語っている。このような紛らわしい病との識別は、祭司の重要な役割でもあった。おそらく、疾患の診断はだれにでもできたことなのだろうが、決定的な診断は祭司の役割とされた。
<夜のディボーション>
 この浸潤性皮膚病に罹患した人は、「衣服を引き裂き」「髪の毛を乱し」「叫ばなければならない」(45節)とされる。それは、罪の罰として神から与えられる病、と考えられていたので、悲しみを表現するためである。彼らは死人と同じようにみなされ、宿営の外に暮さなくて� �ならなかった(46節)。
この個所を、ただ、こうした病理的な判断基準を述べていると読んでしまったら、それまでなのだが、神がその識別を教えられた象徴的な意味を汲み取ることもできるだろう。というのも、この病の性質は、罪の性質に通じるところがあるからだ。「皮膚に広がってきたら」とあるように、しばしば罪は一つ二つというものではなく、私たちの生活全体に浸潤し冒すものである。また、「彼は汚れているので、ひとりで住みその住まいは宿営の外でなければならない」とあるように、罪は人間関係を遮断し、共同体から人を追放してしまう性格を持つ。私たちのうちにある罪が、私たち自身を、また私たち自身の人間関係をも変えてしまうのである。 
イエスは、そのような罪人の私たちに哀れみを示し、私 たちの罪の赦しのために十字架にかかってくださった。本来ならば、宿営の外に、永遠に放り出されてしまうはずの、私たちが、神のあわれみの対象とされたのである。イエスは、人々が忌み嫌い、遠ざけたツァラアトの病人に、手を伸ばしてさわり、「私の心だ、きよくなれ」(マルコ1:44)と癒されている。ここに、不治の病、救いがたい罪の囚われの中にある人々に対する希望がある。
神のもとに行き、自分の罪の現実を知ることは、もはや終わりを意味するのではない。たとえその罪が浸潤性であり、一層根の深い絶望的な症状を呈しているものと判断されることがあっても、神にはこの罪を取り扱う力がある。神に近づくところに、新生の希望がある。いつでも、自分自身の問題を神に持ち来たって、神の取り扱いを受ける心� ��持ちたいものである。

2012年4月22日日曜日


聖書の民

旧約聖書を開くと、そこには古代イスラエルの民の歴史物語が書かれています。
現代イスラエル国家を設立したユダヤ人たちは、人によって程度の違いはありますが、この旧約聖書の物語が、何らかの形で自らの民族の歴史であると考えています。

旧約聖書は一冊の本というより様々な書物の集大成で、その中には、神による世界の創造、 アブラハム、モーセ、ヨシュア、ダビデなどの物語を描いた叙事的物語から、ヨブ記や伝道者の書のように、信仰の内面に迫ったもの、 また歴史の中に翻弄されていくイスラエルの民や苦悩する預言者の姿など、実に多くの物語が含まれています。

神のアブラハムに対する約束

聖書におけるユダヤ民族を理解する鍵となるのは「神と民族の約束」です。 そのような約束の実在を信じない人もいるでしょうが、この「約束」は現在のユダヤ、キリスト、イスラム教の基本であり、今も世界を動かしているのです。

2012年4月20日金曜日


それは、ほとんどの人が"学術のテキストは"実際に何であるかについて、膨大な誤解を持っているようです!

良い例が上に私たちのプレゼンテーションかもしれない神の存在のための引数。ほとんどの人は、ほぼすべての教会やその職員を含めてそのプレゼンテーションを、作成しようとした場合、彼らは"明白な"方法でそれを組み立てるでしょう。

そして、それはおそらく、"学術的"、それが研究と提示された方法鮮やかに関係なく、であることのために適合しないと思われる!

あなたがここにリンクされている私たちのプレゼンテーションを見てみると、あなたは、学術として、それを修飾する著名な区別が表示されます。

右の神の存在の引数の最初のプレゼンテーションの後、その著者は、神の存在に対する議論を説明するセクションがあります!

ほとんどのクリスチャン省はこのようなことを含めに対して悪意を持っているようだ!

多くは私がこのようなことが信じるに含まれることを許して地獄に行くことを確信すること私に言った!

素晴らしい! 彼らは明らかになり、それぞれの彼らの教会のメンバーが彼らの教会のメンバーは聴覚拒否すべきかを聞いて、許可すべきかを判断するのに十分な明るめことを決定する、唯一のanyストーリーや、問題の彼らの側をtellingにこだわる!No、実際の学者はeverでしょうそれを行う!

それは、常に論理的かつ公正に、あらゆる問題の両面を提示する非常に重要と考えられている。

学者は、まれに実際に頑丈に引数と既知の事実に基づいてされているもの以外の結論を、形成することに拡張。

対照的に、我々は、ほとんどのキリスト教書籍、記事、スピーチ、その後完全に(キリスト教)作家やスピーカーが主張したいことを何でも結論をサポートするために表示される選択的証拠のみを提供する傾向があることそれは非常に邪魔でしょう。

それは本当に非常に、非常に重要であると我々は、あなたが違いを参照して願っています。

信じつきましては、必ずしも考えや、キリスト教やいくつかの教会に反対するように見える引数を提示する必要はありませんが、学力正直に提示する時の努力で、我々はそれが非常に重要であると感じていることを考慮しないでください学者、作家たちは、現在の記事あらゆる問題のあらゆる側面。

事実上すべての引数とすべてのグループが素晴らしい資産だけでなく、いくつかの疣を持っています!

我々はそれらのイボの存在を無視しようとした場合、それが潜在的に欺瞞的だと思う!

このテキストは、私たちが留置聖霊がいることについて、一人一人を助けると確信している、特に以来、脳に大きな自信と各リーダーの個人的な見識を持っていることを明らかにしている。

だから我々は学者、作者がキリスト教徒に不安に思えるかもしれない問題を議論するという事実について何も心配はありません。

我々は、これは、我々はすべて私達の訪問者に提示しようとする、単一の視点を選択する、私たちが知っていることが唯一の選択肢よりも、はるかに優れていると感じています。

で最も重要なトピックのいくつかはテキストの100画面分以上の延長の発表があると考えている!のプレゼンテーションローマカトリック教会は、長さが30以上の画面です。

上の1つの神は 、長さ150の画面についてです。

上の1つのイエスの小児は、長さ約500スクリーンです!

さえのような一般的になじみのないテーマSupralapsarianismは、密接にその主題に関連する他の信じページに複数のリンクで、長さが約五の画面です。

より多くの無名の科目の一部がちょうど1つまたは2つの画面で説明しています。

インターネット上で、キリスト教と他宗教のサイトの多くは確かにありま​​す。

それらの多くは有益ですが、彼らは一般的に彼らが話し合うあらゆる科目の独自のビューを提供するように見える。

それは貴重かもしれないが、それは多くの場合、それらの主題の不完全な理解を引き起こす可能性があります。

彼/彼女が1つだけの狭い視点へのアクセス権を持つ場合、どのようにキリスト教の学生や他の宗教は、文字通りどんな主題を理解することができますか?

はい、私たちは時々いくつかのキリスト教徒は、混乱や不確実になることを引き起こす可能性のある事項を育てていないから、唯一の方法を提示するに値が存在する可能性があることを認識。

ファイン。

私たちの無宗派のキリスト教の教会は、一般的には、一貫してそれを行うことは誤りだと考えている。

不完全または不正確または歪んだ情報が利用可能になった場合どのように人は、信仰のための強固な基盤を開発することができる?

最初のグレードの教師は自分だけが彼女の好きなアルファベットの文字とそれらのすべて26を教えることを決めた場合はどうなりますか? 我々のアプローチは、イエスが宗教的な情報を提示している可能性がどのように想像してみることです。彼はポイントをサポートしているいくつかの事実を提示しているか彼が作りたかった?

我々はそれを疑う!

彼は彼が本当に真実であると信じていない、またはそれがそうでなければ不完全または不正確または誤解を招いたり、欺瞞であったこと、任意の文を提示しているか?

我々はそれを疑う!

我々は、彼は辛抱強く質問を持っていたし、彼は完全にそれらの質問への回答を理解するために一人一人を助けるか誰とでも座っているではないかと思う。

我々は、しばしば初期の教会に存在していた本当の状況を考えます。

我々はそれが唯一のイエスキリストが住んでいた約400年後に確定された知っているように完全な聖書。

我々は、時々全体の聖書がちょうどポールの1文字から単一のシートを持っていないために起こった約80 ADの情熱的なキリスト教を、考慮してください。

どのような主はその人に期待しているだろうか?

キリスト教のあらゆる側面を包括的に理解?

それは彼のために不可能です!

しかし、彼は確かに毎日、そのページを読んでいましたし、確かにそれを暗記する。

どんなポールがそのページで説明されている可能性があることを具体的な、この人はに彼の人生を中心にしているだろう。

そして、私たちは主が完全にその努力のための彼に満足していることを感じています。

不思議なことに、私は長年にわたって数百の他の大臣にこの物語を育てているときに、それらのキリスト教大臣の少なくとも200はすぐにその男が完全に続いてキリスト教のすべての側面を持っていないために、地獄に行ったと言っていた!

私が大臣を聞く時にいつも驚いて午前はと言うと、それは彼らが自分の教会で教育されるかもしれないものについての私をterrifies!

それはそれらの近代的な大臣は、キリスト教は、彼らがそのようなことについての明確なイエスの態度を作る聖書の部分を読んで入れてはいけないところ、完全に律法主義的であることを信じるように思われる!

信じは、主にDEEPER献身を可能にする意図で、私たちが知っていることすべて(信頼できる)の観点にアクセスするために私達の訪問者を許可の目的でここにある。

さて、私たちはここでのデメリットを持っている!

私たちは、イエスではありません!

我々は彼の知識と理解を持っていない!そこで、我々だけでこれらの多くの科目の各々に、我々はできる、最も正確で理解可能かつ完全な情報を提供するために我々ができる最善を試してみてください。

これは基本的に信じ宗教的な情報ソースのウェブサイトのためのコアの理由です。 我々は意見を表明しないことを試みるが、各テーマに関する一般的に受け入れ態度の事実とすべてを提示する。

信じは2つの平行な家庭のアルファベット順にリストされている科目があるページ、もう1つはリストの開始時より中央の被写体と他を持っています。

(アルファベット順のリストが右側にあり、その上のリンクは、他のリストにあなたを得ることができます。) これらの記事は多くのによって書かれた世界的に著名な学者がその特定の科目で我 々はそのような学者がそれぞれで利用可能な最善の当局であることを感じた多くの被験者の。

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2012年4月19日木曜日


エホバの証人(エホバのしょうにん、英語:Jehovah's Witnesses)とは、1884年にチャールズ・テイズ・ラッセルにより創始された国際的な宗教団体の成員の名称で、聖書を教典とし世界政府の確立及び全世界が神権政治により統治された社会の実現を支持する組織である。[1]

なお、本記事においては特に断らないかぎり、引用元を示す聖書の書名略記は同団体の日本語冊子等で用いられている用語に、章・節は新世界訳聖書に準拠する。

かつて聖書研究者(国際聖書研究者)と呼ばれていた。神エホバとその御子キリストが天と地を支配する「神の王国」(全宇宙的な神の政府)の確立を支持している。日本に於いては1900年代初頭から「萬國聖書研究團(ばんこくせいしょけんきゅうだん)」という呼び名で活動し、日本支部は「灯台社(とうだいしゃ)」(正式には「燈臺社」)と言う名称で1927年に明石順三によって設立されるも、戦後除名処分を受け、以来エホバの証人と灯台社には直接的な関係はない。聖書は主に「新世界訳聖書翻訳委員会」によって翻訳された新世界訳聖書、また必要に応じて欽定訳聖書・新共同訳聖書等市販の聖書を使用する。以前は市販の聖書のみを使用していた。例えば英語圏では欽定訳聖書(KJV)とアメリカ標準訳(ASV)を、日本語で� �日本聖書協会発行の文語訳聖書を使用していた。成員は全世界(2009年現在236の国や地域)で活動しており、宣教活動を非常に活発に行うことで知られる。自らを1世紀のクリスチャンの復興(真のクリスチャン)としているが、三位一体説の否認などにより基本信条を告白する主流派キリスト教団体からは異端として扱われ、日本では宗教学上「キリスト教系の新宗教」に分類されている。[2]尚、「エホバの証人」という名称は、あくまでも組織を構成する個々または全体の成員そのものを指す名称であり組織名ではない。法人として国、州、郡、都道府県市町村に登録された関連団体は別に名称(ものみの塔聖書冊子協会・エイドアフリーク・国際聖書研究者協会・エホバの証人○○会衆等)を持っており、それらすべてを統括した組織名は現在のところ存在しない。

[編集] 法的機関

Watchtower Bible and Tract Society of New York(ニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会)は、エホバの証人が用いる数ある法人の1つで、関連法人を代表している。他の法人として Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania(ペンシルベニア州のものみの塔聖書冊子協会)、Christian Congregation of Jehovah's Witnesses(エホバの証人のクリスチャン会衆)、そして英国、ロンドンにあるInternational Bible Students Association(国際聖書研究者協会)がある。世界の他の主だった国々で、組織の活動を促進するための地元法人が設立されている。

「エホバ」とは、旧約聖書に描かれる主要な神の名に対応する、日本語表記の1種である。古くには文語訳聖書で「ヱホバ」とも表記された。レニングラード写本 B 19Aの母音符号の打ち方では、四文字語יהוה (アルファベットではYHWH)はエフワー、エフウィ、およびエホーワーと読め、ギンスブルクの編さんしたマソラ本文の母音符号の打ち方では、エホーワーと読めることから、これが派生して「エホバ」という発音が出来たとも考えられる[3]

現在、その正確な発音がどのようなものであったのかについては様々な見解が存在するが、彼らの関心事は「正確な発音」や「正確な名称」そのものにはなく、神の御名が人々の間で高められることに焦点が置かれる。むしろ、「正確な発音が神にとって真に重要であるならば、神ご自身がその保存を怠るはずもなく、そういう事実が無い以上、発音それ自体は重要ではない」、「もし神の名を正確に発音することが必要なら、イエス・キリストもエホーシュア・マシーアハ(ヘブライ語)に変えなければならない」といった見解が見出される。また、聖書に登場するダゴンやモレク、バアルといった他の神々と区別するためには「主」や「神」といった称号では不十分であり、固有名詞の使用は不可欠であると彼らは主張する[4]

1931年より以前、彼らは「ラッセル派」、「ラザフォード派」、「千年期黎明派」、「地獄否定者」、「ものみの塔信奉者」などの蔑称で呼ばれていた。その一方で、彼らは自身のことを「聖書研究者」、「国際聖書研究者」、などと呼称していたが、後者にしても、決して彼らの正式名称というわけではなかったといわれる。1931年にオハイオ州コロンバスで開かれた大会(7/24-7/30)において、7月26日、日曜日に「エホバの証人」との名称を採択する決議が承認される。この大会を皮切りとして、その後、世界各地で開かれた大会もこれに追随し、以降「エホバの証人」は彼らの正式名称となった。

[編集] 神の王国

[編集] 定義

「神の王国」とは、エホバの証人が全面的に支持し到来を期待している新しい社会、またそれを実現する政府であり、心の中にある架空の世界などではない。イエス・キリストを王として天に設立され、遠くない将来、地上においても統治を開始する機関である。

出版物の中ではしばしば、「人間に苦難をもたらす状態をすべてこの地から除去し、永続的な平和と安全をもたらし得る唯一の政府」、「『平和の君』であるみ子イエス・キリストが治める」、「地上の多種多様な人間の物事を管理する義の世界政府」などと定義されている。1960年代までは「御国(みくに)」と表記されていた。

バプテスマを受けた成員はその王国の「臣民」(「国民」、「民」とも称される)として位置付けされており、すべての成員には、その政府を全面的に支持し、王国の到来に伴う希望(「王国の良いたより」)を布告する義務が課せられている。その布告は主な方法として戸別訪問などを用いて行われる。また王国政府への支持を表明する故に地上に現存する如何なる政治に対しても厳正中立的な立場を保ち、国旗敬礼や国歌斉唱はもちろんのこと、参加(立候補・投票など)も一切しない。

また、その「臣民」には「神の王国」の法律、「原則」と呼ばれるものに従う義務を持つ。その「原則」と呼ばれるもののなかには、殺人及び窃盗の禁止など多くの国の法律に共通する規則や結婚外での性関係の禁止などの規則が含まれている。

長年にわたり「神の王国」についての布告を主な活動としており、関係する物件の名称に「王国」という単語が含まれていることが多い。(「王国会館(Kingdom Hall)」(エホバの証人が集会場所として利用する施設)、「王国の調べ」(賛美歌のオーケストラ編曲)、「エホバの王国を告げ知らせる ものみの塔」(機関紙の名称)など1970年代初頭から英文「新世界訳」の影響もある。)

地上における支配は、キリスト教世界の壊滅、国際連合その他地上に現存するすべての政治組織の一掃をもって開始される。それを「ハルマゲドン (全能者なる神の大いなる日の戦争)」と言い、如何なる勢力を持ってしても止めることはできないとされている。

2012年4月17日火曜日


イエスにはどんな特別な役割がありますか。

イエスはどこから来ましたか。

イエスは人間としてどんな方でしたか。

世界には有名な人が大勢います。その人が住んでいる町や都市,国でよく知られている場合もあれば,世界中に名が知れ渡っている場合もあります。しかし,有名な人の名前を知っているだけでは,その人を本当に知っていることにはなりません。その人の育ちや経歴の詳細,本当の人柄を知っていることにはならないのです。

2 イエス・キリストは今から2,000年ほど前に地上で生活していましたが,この人については今でも世界中の人たちがある程度のことを聞いて知っています。それでも,イエスは実際にどんな方だったのかという点になると,多くの人の考えは混乱しています。イエスは良い人だがそれだけのことだという人もいれば,イエスは預言者の一人に過ぎないと唱える人もいます。さらには,イエスは神ご自身であり,崇拝されるべき方である,と信じる人たちもいます。しかし,イエスを崇拝するのは正しいことでしょうか。

3 イエスに関する真理を知るのは重要なことです。なぜでしょうか。聖書がこう述べているからです。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3)そうです,エホバ神とイエス・キリストに関する真理を知るなら,楽園の地で永遠の命を得ることができるのです。(ヨハネ 14:6)さらにイエスは,どのように生きるか,どのように人と接するかについても,最も優れた手本を示してくださいました。(ヨハネ 13:34,35)この本の1章では,神に関する真理を取り上げました。この章では,イエス・キリストについて聖書が実際に何を教えているか考えましょう。

約束のメシア

4 聖書はイエスが生まれるずっと前,神がメシアつまりキリストとして遣わす方の到来について予告していました。この「メシア」(元はヘブライ語)および「キリスト」(元はギリシャ語)という称号には,いずれも「油そそがれた者」という意味があります。約束されたこの方は油そそがれる,つまり,特別な地位に就くよう神から任命されることになっていました。神の約束が果たされていく上でメシアが占める重要な立場については,この本の後の章でもっと詳しく学びます。イエスが今でさえ祝福を与えてくださることについても後で学びます。しかし,イエスが生まれるまでは,多くの人が,『だれがメシアになるのだろう』と思っていたに違いありません。

5 西暦1世紀,ナザレのイエスの弟子たちは,イエスこそ予告されていたメシアであるという確信を抱いていました。(ヨハネ 1:41)弟子の一人であるシモン・ペテロはイエスに,『あなたはキリストです』とはっきり言いました。(マタイ 16:16)しかし,それらの弟子たちは,どうしてイエスが実際に約束のメシアであることを確信できたのでしょうか。どうすればわたしたちも確信できるでしょうか。

2012年4月15日日曜日


イスラーム建築(英語: Islamic architecture, アラビア語: عمارة إسلامية‎)とは、草創期から現代に至るまでに、イスラームの人々によって生み出された建築である。ムスリム建築、ムハンマダン建築とも呼ばれる。たいへん多様な建築であり、建築材料も建築技術も多岐にわたるが、一定の統合的な原理を持ち、また、古代建築の特徴を西洋建築よりも色濃く受け継いでいる。

イスラーム文化の領域内においては、モスク、ミナレット、ミフラーブ、ムカルナスなどの施設が採用されたため、建築のデザインや構成は地域性を超えて大きな影響を受けた。また、イスラームでは偶像崇拝が禁止されていたため幾何学模様と文字装飾が発展し、美しいアラベスクやカリグラフィーがイスラーム建築を彩っている。

ここでは、イスラーム建築をいくつかの地域に分け、その変遷の歴史を展開した上で、構成要素を展開する。現代イスラーム建築についても、簡単に触れる。

イスラーム建築とは、7世紀から18世紀、ないしは19世紀までの期間に、イスラーム文化圏で形成された建築を指している。現代のイスラーム世界の建築は、現代建築としてこの言説では触れられないこともある。ほぼ1200年に渡る時間と、世界の半分と言ってもよいほどの地域を占めており、その意匠はイスラームを信奉する民族と同じほど多様性を持つと言っても過言ではない。ただし、イスラームは宗教であると同時に社会構造であると言ってもよく、このため、イスラーム建築には地域性を超えた、共通した特質が認められる。

イスラーム建築は、カロリング朝滅亡の後に古代と断絶したヨーロッパ諸国の建築に比べ、古代建築の諸形態をよく受け継ぎ、今日に至るまで維持してきた。このため、イスラーム建築の形態は、おおまかに、南西部アナトリア半島から北部シリア、パレスティナ、エジプト、リビア沿岸部から北アフリカ西部までのかつてのローマ帝国および東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配地域と、メソポタミア、アフガニスタン、パキスタンなどのサーサーン朝ペルシャ帝国の支配地域に分けることができる。

アッバース朝滅亡の後に勃興し、あるいは衰退していったイスラーム諸国は、特定の宗教施設、社会施設を導入し続けた。これについては、少なくともウマイヤ朝の成立からアッバース朝が滅亡するまでの間は、ローマ式の社会制度と建築施設を各地に建設し続けたローマ建築と状況はよく似ている。実際に、礼拝モスク、ミナレット、ミフラーブ、ムカルナスなどの施設はイスラーム建築の最も目立つ共通性となっている。

イスラーム建築の歴史については、便宜的に次のように区分することができる。つまり、「前古典期」あるいは「形成期」、「古典期」、「ポスト古典期」である。「形成期」は、イスラームが生まれる前の建築を積極的に導入し、同化していった時期で、ウマイヤ朝、アッバース朝、初期ファーティマ朝、後ウマイヤ朝、そしてサーマーン朝、ガズナ朝、初期セルジューク朝の建築がこれにあたる。「古典期」は、ムカルナスと尖頭アーチが普及していった時期で、建築技法や建築形態は、国や民族の壁を超えて自由に交錯した。「ポスト古典期」は、イスラーム建築の(現代イスラーム建築を除く)最後の改変期で、オスマン帝国とサファヴィー朝、そしてムガル朝の建築のことである。これらの巨大勢力の建築は、地理的に隣接し� ��いるにもかかわらず相互に全く影響を及ぼさなかった。

[編集] 形成期の建築

モスクをはじめとするイスラーム建築は、その起源も含め中東一帯の建築文化の系譜に連なっている。

イスラームに先行してアラビア半島周辺では、神殿やシナゴーグなどの宗教施設において、既に聖所、中庭、中庭を取り巻く列柱という建築要素が存在し、後の時代に建設されるモスク建築もこの伝統に連なるものと見る事ができる。例えば、先イスラーム時代の紀元前2世紀のものと思われる南アラビアで発掘されたフッカ神殿には、聖所とそれに後続する中庭プランを有し、その中庭には八角柱による列柱が巡らされ、中庭には水盤が置かれていた。また、南シリアのドゥラ・エウロポスのシナゴーグ遺跡には、すでにトーラーを安置したと思われる聖龕と右脇に説教壇が置かれた聖所を持ち、それに後続して列柱を巡らせた中庭をもっていた。聖龕と右脇に配された説教壇、列柱つきの中庭、水盤という構造は、現在に至るモスク建 築の要素と共通する。

イスラーム建築の端緒は、622年のヒジュラの後にマディーナに礼拝所として建設された預言者ムハンマドの邸宅に始まる。記録によると、預言者の家は日干しレンガ(アドベ)で作られ、1辺が100ディラーウ(dhirā')すなわち約50メートル、面積は約2,500平方メートルの広い中庭と、それに接する南北に1列ずつの柱廊を巡らした部屋から成り、壁の高さは2.5メートル程であったという。中庭に面する柱列にはシュロで覆って屋根をつけた。ムハンマドはここを信者に開放して集団礼拝や信者からの陳情を聞いたと伝えられる。当初エルサレムがキブラであったため北側の壁面を背にして普段ムハンマドが礼拝する右脇に3段の木製の高座(のちのミンバル)が置かれ、ここでムハンマドは説教を行っていたが、マッカ征服後はキブラはマッ� �に定められたため、南側の柱廊が増設されミンバルも移動した。これが現在の預言者のモスクであり、その後の全てのモスクの起源、雛形となった。ただし、アッバース朝の歴史家イブン・サアドによるムハンマドの伝記によれば、ムハンマド自身は信者の財産を無駄にするということで、建物の建設を禁じたと伝えている。豪華な建築物の建立と偶像を禁止するという預言者の教えに従い、ムハンマの存命中と彼の後継者である正統カリフの時代には、イスラーム建築はほとんど発展が望めない状況にあった。しかし、ウマイヤ朝の時代になると、イスラームは芸術に対する関心を示すようになり、これにともなって建築も発達する。ウマイヤ朝からアッバース朝の時代にかけて、イスラーム建築は古代の建築を吸収し、イスラーム特有 の建築形態を模索することになるのである。

[編集] 預言者ムハンマドと正統カリフの時代

ムハンマドがキブラをカアバ神殿に定めたのは624年のことであったが、マッカとカアバ神殿がクライシュ族から奪還され、イスラームの聖地となったのは630年であった。この場所はイスラーム以前から聖地として巡礼者を集めていたが、ムハンマドが偶像崇拝を禁止したため、カアバ神殿内の偶像は全て破壊された。カアバ神殿はイスラーム最初の建築物であるが、既存の建築物を修繕したもので、イスラーム独自の建築と呼べるものではない。


7世紀中に、ムスリムの軍隊は、ペルシャ、シリア、エジプト、マグレブ(そして8世紀にはイベリア半島へも)に領土を拡大し、各地に信仰の拠点となるモスクを整備した。638年、サアド・ブン・アビー=ワッカースはクーファの町を建設し、ここに会衆モスクを建設した。周囲を堀によって一辺約104mの正方形に区切り、キブラに向かって木造屋根を架けた列柱を持つだけの、たいへん簡素なものである。しかし、この単純な建物が最初のイスラーム建築で、635年頃に建設されたバスラの会衆モスクは葦で囲われただけであった。

宗教施設と比較すると、世俗建築はより強固な建築であった。635年、バスラに政庁府(ダール・アル・イマーラ)が建設され、638年には、クーファにも政庁府が建設されるが、賊が侵入したことによって、ウマル・イブン=ハッターブはクーファの政庁府をより堅牢なものに建て替えるよう命じている。また、644年から656年の間に、ムアーウィアによってダマスカスの政庁府が建設されている。しかし、やはり建築物には何らの装飾も行われなかったようで、東ローマ帝国の使節はこの政庁府を評して、上は鳥の巣、下はネズミの巣と述べている。

[編集] ウマイヤ朝によるイスラーム建築の発達

それまでの正統カリフの時代に比べると、ウマイヤ朝はイスラームに芸術をもたらすことになるが、その着想はサーサーン朝の装飾やシンボルの影響がたいへん強く、少なくとも芸術分野においては、ウマイヤ朝はサーサーン朝の後継者であった。東ローマ帝国の影響があまり認められないのは、コンスタンティノポリスを攻略できなかったことが大きいと考えられる。建築については、やはりサーサーン朝のペルシャ様式の影響が濃いものの、都がダマスカスにあったこともあって、ローマ建築、古代エジプト、ビザンティン建築の影響も認めることができる。

ウマイヤ朝による初期のイスラーム建築の傑作は、7世紀末に完成したエルサレムの岩のドームと、8世紀初頭に完成したダマスカスのウマイヤド・モスクである。アル=アクサー・モスクも、現存する建物は ワリード1世によって建設されたものが中核となっているが、アッバース朝の時代に大増築され、さらに後の時代になっても度重なる変更が成された。現存する部分では、東側の廊下の一部がワリード1世の時代のものと考えられている。ワリード1世は、706年にモスクにミフラーブを設置することを決めるなど、ウマイヤ朝の建築に大きな足跡を残したカリフで、建物の建設に際してはエジプトのコプト教徒の工匠を雇用し、イスラーム建築の発展に寄与した。

岩のドームは、ウマイヤ朝の全盛期を築き上げた第5代カリフであるアブドゥルマリクの手によるもので、八角形の台座の上に、室内に光を取り込むドラムと呼ばれる円筒状の部分を設け、その上に金色に輝くドームを設けた。台座にあたる部分は、カアバと違って八角形で、内陣(聖なる岩がある)を周歩廊が取り囲むが、この形式は初期キリスト教建築におけるマルティリウム(記念礼拝堂)のいくつか[1]に類似している。

しばしば大きなダメージを受け、大幅に改修されてしまったために、当時の姿をほとんど停めていないが、ダマスカスの大モスク(ウマイヤド・モスク)は今なおイスラームの重要な建築物として存在している。ワリード1世によって、706年に建設されたウマイヤド・モスクの中央に設けられた袖廊の北側正面は、コンスタンティノポリスにあった皇帝宮殿のハルケ門や、スプリトのディオクレティアヌスの邸宅、イタリアのラヴェンナにあるサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂のモザイクに描かれた東ゴート王国のテオドリック王の宮殿などとの共通性が指摘され、比較されている[2]。ラヴェンナのテオドリックの王宮と同じく、ダマスカスの大モスクもモザイクがちりばめられており、中庭と廊下はカーテンで仕切られていたようである。

ワリード1世によって建設されたと言われるアンジャルは世界遺産にも登録されている都市遺跡で、近隣の石切り場から、714年の刻印の入った外壁仕上げ材が発見されている。370m×310mにもおよぶこの都市を建設したのはエジプトの職人集団で、列柱によって装飾されたカルドとデクマヌスの交差、インスラによって形成されるグリット状の都市形態は、ルザファ、ティムガッドなどのローマ都市そのものである。ただし、宮殿とされる建物はバイトによって構成されるイスラーム特有の形式で、公私二つの謁見広間を持っている。

イスラーム初期の建築装飾は、現在、その一部がベルリンのペルガモン博物館に保存されている未完の都市、ムシャッタ宮殿に見ることができる。浮き彫りの唐草模様がびっしりと施された壁面は、ジグザグのモールディングによって三角形に縁取られており、地中海の芸術とサーサーン朝初期の芸術相互の影響をみることができる。しかし、このような装飾はオスマン朝とムガル朝を除けば、以後のイスラーム建築では全く見られない。

[編集] アッバース朝の初期イスラーム建築

サーサーン朝が君臨していた現在のイラン、イラクをその勢力下においたアッバース朝は、サーサーン朝以来のペルシア建築の伝統を引き継いだ。アッバース朝の時代には、ウマイヤ朝由来の陸屋根を多くの円柱で支える多柱室形式のモスクが各地に建設されはじめたが、宮殿に採用された四分割中庭とドームに通じるイーワーンはペルシアの職人によって建設されたもので、おそらくペルシア建築に由来するものと考えられている。

762年に、アッバース朝第2代カリフのマンスールによって建設が開始されたバグダードは、現在に残る痕跡はまったくないが、同心円状の二重の城壁と四つの門をもった直径 2.3kmの円形都市であった。ニネヴェ、ハトラ、ハッラーン、アルダシール1世によって開かれたサーサーン朝の都市 フィールーザーバードなども、円形の堀や市壁に囲まれ、等間隔に四つの門が配置された構成であったが、このような円形都市は中央アジアではかなり古くから存在していた。つまり、バグダートは古代中央アジアの宇宙観から導かれた構造を受継いだ都市で、占星術的な天命思想を模範とする、アッバース朝初期の統治イデオロギーの具体的な表出と考えられている[3]。マンスールによるバグダードのアイデアは、元はゾロアスター教徒であった宮廷占星術師ナウバフトと、ペルシア系と思われるバスラ出身のユダヤ教徒マーシャーアッラーフら宮廷占星術師たちの入念なプランによるとされるが、仏教徒からイスラームに改宗した腹心のハリード・ブン・バルマクの関与も指摘されている。

カリフ・マンスールの甥にあたるイーサー・ブン・ムーサーによって764年頃か778年頃に建設されたと思われるウハイディル宮殿は、城壁に囲まれた砂漠の中にある宮殿遺跡であるが、かつては灌漑設備を備えた農地に囲まれていた。東西169メートル・南北179メートルに及ぶ広大な矩形の外壁を有し、さらに東西82メートル・南北112メートルに及ぶ内城壁によって宮殿の建物群が囲われていた。東西南北に四つの城門を持った外城壁は、約10メートル間隔で半円形に突き出た櫓を有し、城壁の上部には矢狭間(やざま)とアーチによって支えられた巡警路が内部に含まれており、城壁も含めて建物全体がレンガ造りではなくモルタルによって固められた石積みという大変に強固な構造である。これら二重の城壁によって宮殿は城塞化されてい た。現在でも内城壁内部の宮殿の主要な部分は原形を保っている[4]中央にイーワーンを通し、その両側に居室を配置するウハイディルの構成は、歴史家のマスウーディーによると、ペルシアの戦闘陣形を表したもので、第10代カリフ・ムタワッキルによってはじめて採用された。バグダートにあった大宮殿もウハイディルと同じ構成であったと考えられるが、これが事実であるとすれば、細部装飾、建築構造、平面計画のすべてはサーサーン朝に由来しており、アッバース朝の権力者たちがサーサーン朝の儀礼、権力を用いて、王権の不動性の確立に配慮したことが伺える。このような宮殿建築は、第8代カリフ・ムウタスィム(在位833年 - 842年)によって建設されたサーマッラーのカスル・アル=ジッスとジャウサク・アル=ハルカニーに見ることができる。


ムウタスィムはマムルークを保護するため、836年にバグダードの北約100kmに位置するサーマッラーに都を遷した。この都市は、ティグリス川の東岸に位置する長辺35kmの長方形の都市で、市壁などの都市を防衛する機能は何も持っていなかった。ムタワッキルの子ムウタッズの住んだサーマッラーのバルクワーラー宮殿には、「シュレークシュニット」と呼ばれる曲線で構成されたアッバース朝特有のスタッコ装飾が残っている。これはエジプトからトランスオクシアナの広範囲に見られる中央アジアに起源を持つ装飾で、その抽象性は後のイスラーム美術に通じる。サーマッラーの大モスクは848年頃に建設が開始され、852年に献堂式が行われた。現在は焼成煉瓦によって建設されたクテシフォンとほとんど同じ形状の周壁と、マルウィヤ� �ミナレットと呼ばれる螺旋型のミナレットのみが残る。しかし、周壁内部の大きさは240m×156mに達し、平面規模で言えば現在でも、イスラームで最も大きなモスクである。内部構造は失われているが、煉瓦造の角柱に転用材の円柱を取り付けた柱で陸屋根を支える、ウマイヤ朝由来の多柱室形式のモスクであった。サーマッラーでは、ホルサバードやバビロンの建築形態、サーサーン朝の伝統的装飾が取り入れられており、イスラームが独特の建築を獲得する上で、様々な素地を包含していったことがわかる。

[編集] サーマーン朝とガズナ朝の建築

875年にマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)全域を支配したサーマーン朝は、首都をブハラにおき、その宮廷は10世紀中期まで近世ペルシア語文芸復興の中心地であった。ガズナ朝はサーマーン朝から977年に事実上の独立を果たし、現在のアフガニスタンのガズナを拠点として北インド方面へ盛んに遠征し、最盛期にはホラーサーンからガンジス川流域までの広大な領土を支配した。いずれの王朝も、ゾロアスター教建築に由来すると見られる開放されたパビリオン形式の霊廟と、イーワーンを備えたモスクを形成するなど、イスラーム建築において主要な役割を担ったと思われるが、セルジューク朝以前のイラン建築はほとんど残っておらず、確実なことは言えない。

他の建築物に比べると、霊廟建築はある程度の残存例がある。ブハラに現存するサーマーン朝第2代君主イスマーイール・サーマーニーの霊廟はその傑作で、900年頃に建設が開始された。四方すべてが扉のない解放されたパビリオン形式で、煉瓦の模様積みと彫刻が施されたテラコッタを組み合わせることによって、美しい外観となっている。本来イスラームでは、墓を美しく飾ることが禁止されていたため、このような解放的なつくりにして、この禁から逃れる意図があったのではないかとの説がある。ティームのアラブ・アター霊廟は、977年の碑文を持ち、イスマーイール廟とほぼ同じモティーフの装飾によって飾られている。9世紀頃からイスラームの支配地域では、各地の伝教に従事したアラブ入植時代の宗教指導者たち(イスラ� �ム第一世代であるサハーバや預言者ムハンマド家の縁者たちも含まれる)などを聖者(ワーリーなど)として崇敬し、その墳墓を参詣する習慣が広範に見られるようになった。場合によっては墳墓に堂宇を設けて墓廟として建設する例も増え、これら中央アジアの墓廟建築の出現もこのような時代的な変化を背景としている。浅いイーワーンの背後にドームを持つ形式で、その後建設されるモスク形式のはしりというべき建築となっている。

2012年4月14日土曜日


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【Twetter】

こちらでちょこちょこつぶやいています。

どうぞよろしくお願いします^^

【下位チャクラの活性化のポイント】

下位チャクラの活性化のポイントを書いています。

こちらから最新のものと、今までの見出しがご覧になれます。

【遠隔セッションのご感想】

全く面識もなく、ご紹介も何もない、

初めての方からのご感想です。


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2012年4月12日木曜日


     宗教改革期の諸信条

 毎年、10月最終主日を宗教改革記念日として覚え、宗教改革に関する文書を,配布していますが、今年は、宗教改革時代に作られた、代表的な信条について記します。

 宗教改革は、16世紀、17世紀の時代ですが、プロテスタント(新教)は、たくさんの信条を作成しました。ルター派、改革派、バプテスト派、会衆派、その他、それぞれの教派が、自分たちの信仰を信条で積極的に表明しました。

 信条を、最初に作ったのはルター派です。ルターに指導されたルター派教会は、6つの信条を作りました。それらは、アウグスブルク信仰告白(1530年)、アウグスブルク信仰告白の弁証(1530年)、ルターの大教理問答書(1529年)、ルターの小教理問答書 (1529年)、シュマルカルト条項(1536年)、和協条(1577年)です。

 それで、今は、これらの信条について逐一述べませんが、ルター派教会の信条作成の特色は、この6つしか作らなかったことです。ルター派信仰は、母国のドイツから始まって、広くョーロッパ各国に伝わりましたが、しかし、ョーロッパ各国のルター派教会は、特には、信条を作りませんでした。ドイツで作られた6つの信条を持つことで満足したことだけを覚えたいと思います。

 では、改革派教会の信条はどうだったでしょうか。すると、カルヴァン以来、各国の改革派教会が、自分たちの言葉で、次々と信条を作って、自分たちの信仰を積極的に表明しました。そのため、改革派信条は、何十もあります。小さいものまで入れれば、さらに数は増えるでしょう。

2012年4月11日水曜日


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2012年4月10日火曜日


反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する差別思想をさす。

[編集] 反ユダヤ主義の背景

反ユダヤ主義者の主張には、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、排他的な思想であり、イエス・キリスト殺害の張本人であり、金融業で財を成した」などがある

選民思想とは、「選ばれた民」というだけでなく逆に唯一神を「選んだ民」でもあるが、後者の点だけであれば、キリスト教も同じであるのでキリスト教徒から難じられることも無い。 ユダヤ教とユダヤ人は民族主義であると同時に、確かに普遍主義を重視する場合もあるが必ずしも常に排他的とも言えない、とする意見もある。つまり、旧約聖書には、ユダヤ民族の他民族に対する最終的勝利を語る部分が少なくない、それらは古代イスラエルの比較的後代のものであるのだとし、「イスラエルの民によって、地上のすべての民が祝福に入る」と考えられる箇所もまた多いとするのである。しかし、その祝福がイスラエルの民による支配のもとにあってのものではないのかという疑念は残る。キリスト教と比べユダヤ教には、民族性を超えた普遍宗教としての性格は劣るという主張があるが、ユダヤ人というものは「ユダヤ教」の「宗教的共同体の一員」であるという性格を強く有することを考慮に入れる必要がある 。

歴史的にいえば、キリスト教初期において、ヘレニズムに基づくキリスト神学者の中には、ギリシャ文献のみを認める態度がある者もいた。やがてグノーシス主義とその異端視を通じて、反ユダヤ主義との争いに発展した。反ユダヤ主義的な信仰を異端とすることで決着がついた時は遅く、イスラム教とユダヤ教の協調と、聖像破壊運動が起こっていた。それ自体はキリスト教の勝利で終わったが、ユダヤ教の中に、異端として断罪した観念との類似性、基盤を見つけることは難しいことではなかった。もちろん、ユダヤ教とキリスト教は、およそ宗教を構成しうる要素について、完全に異なる宗教であり、仮に異端と同じ観念が相手方にあったとしても、それは関連づけるべきではない。しかしそうするには互いの主張は互いとの対比� ��依存し過ぎていた。ここにおいて、神学から離れ、政治的理由からユダヤ教の差別化が始まっていく。

イスラム教圏でもキリスト教国と同様の理由で差別が行われた[1]が、キリスト教圏に比してややユダヤ人の扱いは良好だった傾向にある。 厳しい制限付きではあるものの一定の人権を保障された彼等は、時には宮廷などで活躍することさえあった。ただし、キリスト教圏でもユダヤ人に対し寛大な取り扱いがなされることもしばしばあり、国家財政を左右するほどの力を持ったユダヤ人もいたため、一概に論じることはできない。

なお中国等、反ユダヤ主義のない地域ではユダヤ教徒は現地の宗教と同化するか、開封など排他的で自立的な比較的小規模なコミュニティに留まり、消失していった。

[編集] 反ユダヤ主義の歴史

ここでは主に制度的な反ユダヤ教主義を扱う。論争史については一文字下げるで示す。

[編集] 中世

[編集] 近世初期

[編集] 18世紀 - 19世紀(ユダヤ教徒「解放」の時代)

[編集] 啓蒙主義時代

[編集] フランツ・ヨーゼフ1世のユダヤ保護政策


ユダヤ教(ユダヤきょう、ヘブライ語: יהדות[1])は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(יהוה)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。ただしメシア思想は、今日ではハバド・ルバヴィッチ派などを除いて中心的なものとなっていない。 旧約聖書が重要な聖典とされる。

『タナハ』 (ヘブライ語ラテン文字転記:tanakh)、『ミクラー』 (miqra') とよぶ書を聖典とする。これはキリスト教の『旧約聖書』と同じ書物である。ただし、成立状況が異なるので、キリスト教とは書物の配列が異なる。イスラム教でも『モーセ五書』は『コーラン』に次いで重要視される。ユダヤ教では、この他にタルムードをはじめとしたラビ文学も重視する。

しかし、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教と違い、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視する[2]。例えば、ユダヤ教の観点からは、信仰を持っていたとしても、アミーダー・アーレーヌー・ムーサーフなどを含んだシャハリート・ミンハー・マアリーブを行わないこと、シェマア・イスラーエールを唱えないこと、ミクラーを読まないこと、食事の前とトイレの後の手洗いと祈りを行わないこと、戸口のメズーザーに手を当てて祈りを行わないこと、カシュルートを実行しないこと、タルムード・トーラー、ベート・ミドラーシュ、イェシーバー、コーレールなどミクラーとラビ文学の研究を行わないこと、シャッバートを行わないこと、パーラーシャーを読まないことなどは、ユダヤ教徒としてあるべき姿とは言えない。「信じるものは救われる」などという講義をするラビはとても考えられない。そのため改宗� ��も時間がかかり、単なる入信とは大きく異なる[3]

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が[4]」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。

" וַאֲהַבְתֶּם, אֶת-הַגֵּר: כִּי-גֵרִים הֱיִיתֶם, בְּאֶרֶץ מִצְרָיִם
寄留者(ゲール)を愛しなさい:あなた達がエジプトにおいて寄留者であったからである (ミツワー、典拠は申命記10:19)
"

すなわち、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。非ユダヤ人も神の下僕となり、神との契約を守るならユダヤ教徒になることができるとされる[5]。ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性がある[6]

一方、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤ人キリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによってもはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。これは民族の定義を血縁によるのか、宗教によるのか、「ユダヤ教」が「民族宗教」なのか、あるいは「宗教民族」ともいえるのか、といった問題につながる。

2012年4月8日日曜日


 

こちらでは、マザーテレサによって残された言葉をとおして、その愛と祈りの生涯を見て行くこととします。


1

この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。

 マザー・テレサ語る より

マザーテレサは、貧しい人々、病んだ人々を生涯にわたって愛し、助け続けました。

彼女のつくった「神の愛の宣教者会」は、「孤児の家」「ハンセン病患者の家」「死を待つ人の家」「結核患者、精神病者の家」等を運営し、常に貧しい人々の中のいちばん貧しい人々、病んだ人々、社会の人々から必要とされていないと感じるような立場におかれた人々を、今現在も愛し、助け続けています。


2

マザーは信仰の人でした。カトリックの修道女として生きた人でした。

すべての人は良心をもっていて

みんなそれに

従わなくてはならないのです

その愛は、宗教や宗派にかかわらず、世界中のすべての人に対して、注がれていたのです。マザーに対して当初偏見を持って見ていた他宗教、他宗派の人々も、マザーのすべての人々に対する献身する姿に心を打たれる事になりました。やがてあらゆる宗教、宗派の人々がマザーを理解して行きました。

もしあなたが謙虚であるなら

何ごともあなたの心を汚さないでしょう

もしあなたが聖人であるなら

神に感謝しなさい

もしあなたが罪人であるなら

そのままでいてはいけません

 

マザーは、信仰による真実に生きることを自ら実践し、人々にもその生活の場での、真実の実践を勧めました。

もし、経験がないならば、尋ねなさい

尋ねることは恥ずかしいことではありません

けれど、知らないことを、

知っているようなふりをするのはやめなさい

マザー・テレサ 日々のことば より


3

マザーの活動はインドのカルカッタで始まりましたが、やがて世界の多くの国々へと広がることになったのです。

考える時間を持ちなさい

祈る時間を持ちなさい

笑う時間を持ちなさい

 

それは力の源

それは地球でもっとも偉大な力

それは魂の音楽

 

遊ぶ時間を持ちなさい

愛し、愛される時間を持ちなさい

与える時間を持ちなさい

 

それは永遠につづく若さの秘密

それは神が与えてくれた特権

自分勝手になるには、一日は短すぎる

 

読書する時間を持ちなさい

親しくなるための時間を持ちなさい

働く時間を持ちなさい

 

それは知識のわき出る泉

それは幸福へつづく道

それは成功の価値

 

施しをする時間を持ちなさい

それは天国へと導く鍵

 

[カルカッタの「孤児の家」の壁にある看板より]

子どもたちを見るとき、マザーの顔は優しさと慈しみにみちていました。

すべての子どもたちが、この世に望まれて生まれてくる、とマザーは言っています。それは一人の例外もなくすべての子どもたちを意味していました。

マザーは、子どもたちは祈ることを学ぶ必要があると語りました。


4

私たちは、祈ることで誘惑に打ち勝つ強さを得るでしょう。

なぜなら、少しでも神に近づいた人間は、まわりにいる人たちに楽しさと愛を広めるからです。

この言葉は、なによりもマザー自身の体験をとおしての、祈りの果実を示しています。

それはとてもシンプルなものなのです。

私たちすべてが必要としているのは、祈ること、そして、他の人をもっと愛し始めることなのです。

マザーは、祈る事と人を愛する事が、すべての人に必要なものと言っています。

そして、祈るときに必要なものとして、沈黙をあげています。

だれにでも、沈黙し、黙想する時間が必要です。私はいつも沈黙のなかで祈りをはじめます。

神は静寂の友です−私たちは神の声に耳をかたむける必要があります。

祈りは魂を満たしてくれます。そして、人間は、祈ることで神に近づくことができるのです。

祈ることで、あなたは清らかで純粋な心を与えられるのです。

マザー・テレサ語る より


5

マザーは、心の静けさ(真の内面的な静寂)を得るために、次のようなことを上げています。

他人の過ちや、罪深いすべてのものに目を閉じ、神の美徳をさがす(目の沈黙)

ゴシップや告げ口、無慈悲な言葉等の声に耳をふさぎ、神の声や貧しい人の叫びに耳を傾ける(耳の沈黙)

暗さや動揺、苦しみを引き起こすすべての言葉をつつしみ、私たちを啓発し、鼓舞し、平安や希望や喜びをもたらす神の真理の言葉、イエスの言葉を口にする(舌の沈黙)

うそや混乱、破壊的な考え、軽率な評価、他人への誤った疑い、復讐心、さまざまな欲望などに精神を閉ざし、祈りと黙想において神の真理と知識に精神を開く(精神の沈黙)

すべての自分本位の考え、憎しみ、うらみ、ねたみ、欲ばりを避け、私たちの心、魂、精神、力において神を愛し、神が愛するように人を愛する(心の沈黙)

マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈りより

マザーは、心の静けさを保つことによって、神の声を聞く特権が与えられると言っています。


6

マザー(この呼び名は、修道女〈シスター〉の母、女性指導者の意ですが、彼女の場合には、その固有名詞として呼ばれています)は、世の人々に対して、彼女と同じことをしてほしいとは言いませんでした。ただ、それぞれの生活する所で、彼女と同じように祈る人、他の人を愛する人になってほしいと願っていたのです。

彼女は、祈ることはだれでも、いつでも、どこにいても出来ると言っています。

祈ることをたびたび勧めています。それを説く相手は、宗教、宗派を超えていました。マザー自身は、彼女の信仰する父(神)とイエス・キリストさらに聖母マリアに祈ることを実践した人でした。

すべての宗教は、永遠なるもの、つまりもうひとつの命を信じています。

この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人たちは、死を恐れます。

もしも、死は神の家に帰ることだと、正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです。

マザー・テレサ 日々のことば より

マザーは永遠なる命について語っています。死は終わりではない、正しい信仰を知って生きる人は死を恐れることはないと言っています。すべての人はやがてこの世の死を迎える事により、神(宗教、宗派を超えた父(創造主))の家(霊魂の世界)へ帰ると語っています。彼女の信仰は、祈ることによって成し遂げられました。

私の秘密をおしえましょうか。私は祈ります。キリストに祈るということは、キリストを愛することと同じなのです。

救われるためにどうしたらよいのでしょうと尋ねる人があったら、私の答えは「神様を愛することです。そして、何よりもまず祈ること」

キリストを知らない人が、真にキリストを知るようになることをマザーは願っていましたが、それに関連して、彼女はこの世のすべてのキリスト信者にとって大切な言葉を残しています。

キリスト信者と世間に認められていても実際には実行していない人は、キリストを知らない人がキリストに近づこうとする事をさまたげてしまうと言っています。

生涯を通して実践していたマザーの大切な言葉です。

ガンジーは、キリストのことを知った時、興味をいだきました。しかし、キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。

キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉だけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。

マザー・テレサ愛と祈りのことば  より


7

マザーは真の信仰(祈り)であれば、その人の祈りは、きっと受け入れられると話しました。

信仰が深まれば、いかなる宗教、階層、肌の色、国籍、貧富の差も存在しないとわかります。

 マザー・テレサより

マザーの信仰は、あらゆる宗教、宗派はもちろんあらゆる人種、社会的身分の人々を含むものでした。

すべての人々が必要としているのは、他の人々をもっと愛し始めることと言っています。

神様だけが、私たちの真の必要をご存知です。

愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です。

マザー・テレサ愛と祈りのことば  より

どんな小さいことであっても、大いなる愛を込めておこなうことは、人に喜びを与えます。そして人の心に平和をもたらします。

何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるか、、、 それが重要なのです。

2012年4月7日土曜日


   黄金伝説の聖アガタ譚からの引用は特記のないかぎり、人文書院前田敬作ほか訳1985年版訳から" "で抜粋した。解説は、各出典から該当箇所を《 》で引用している。

@ "乙女アガタは、貴族の出で、美貌にめぐまれ、カタニア市に住んでいた。そして、成徳をもって神をうやまっていた。"

 《アガタ1(注一)(Agatha)は、<神聖な>の意のagiosと<神>の意のtheosから来ていて、<神の聖女>という意味である。
 クリュソストモイス(1巻p35注20:)が言っているように、人を聖人にするものは三つあるが、そのどれもが、彼女に完璧にそなわっていたのである。
 その三つとは、こころの純粋さ、聖霊の臨在、あらゆる種類のみちあふれるほどの善行である。
 あるいは、Agathaは、a すなわち(・・・・なしに、を欠いて)とgeosすなわち<大地>とtheosすなわち<神>とに由来し、<大地なき女神>、つまり地上のものへの愛をもたない女神という意味である。
 あるいは、agaすなわち<話している>とthauすなわち<完成>とに由来し、 <完全無欠に話す女>という意味である。われわれは、そのことを彼女が拷問者に与えた返答に見てとることができる。
 あるいはまた、agatすなわち<しもべ>とthaosすなわち<上の>とに由来し、<天のしもべ>という意味である。彼女がそう呼ばれるのは、「最高の自由は、神のしもべであることです」と彼女は言っているからである。
 あるいはまた、agaすなわち<おごそかに>とthauすなわち<完成>とに由来し、<おごそかに完成された女>、つまりおごそかに埋葬された女という意味である。というのは、天使たちが彼女を埋葬したからである。 
 
 *クリュソストモイス(1巻p35注20:本名ヨハネス(ギリシャ語名ではヨアネス、344ないし345〜407)、聖人(祝一・27)、コンスタン� ��イノポリス総大司教、教会博士、東方教会最大の説教家としてその雄弁のため<黄金の口 クリユソストモス>のヨハネスと呼ばれる。
 主著「司教職論」六巻のほか聖書釈義(とくにパウロの手紙に関するものが250以上もある)、説教集、書簡(236通)などおびたたしい著作がある。 )「黄金伝説」 ヤコブス・ウォラギネ 人文書院 前田敬作ほか訳 1985年 一巻p394
第壱巻p35−36付注20より引用。 なお、上記の注[1]は、概要編を参照のこと。》

 

 nobody:聖アガタの解説を、黄金伝説の冒頭文の引用によって行うと、ラテン語による学問的探求と解釈がおこなわれます。ラテン語のわからない私にとって、語源の解釈、AVE(マリア様)をひっくりかえしたらEVA(アダムの妻のイヴ。「聖書 GOOD NEWS」では、アダムの肋骨から作られた女・妻で、禁断の果実・リンゴをたべて人類が「楽園」から追放された原因に寄与したとされる人物)のような中世の人がこのんだとされる「言葉の遊び」、あるいは、物語のイメージをふくらませるトレーニングというか、粗筋や重要語句解説の紹介にも最近思えてきました。師曰く、ここは、試験にでるから「マーク」するように。


A"シチリア州の総督クィンティアヌスは、生まれもいやしく、好色で、貪欲で、異教徒であったが、この高貴な乙女をなんとしてでも愛人にしたいと思った。
 彼女の身分の高貴さで自分のいやしい素姓たかめ、彼女の美しさを自分の好色の餌食にし、彼女の財宝を自分の貪欲を満足させるためにかすめとろうと思ったのである。
 おまけに、偽神たちの崇拝者であったから、彼女に無理やりのでも神々に供犠させようとした。彼はアガタを出頭させた。しかし、彼女の意志を変えることができないとわかると、アプロディシアという名前の女郎屋の女将といずれも罪ぶかい生活を送っているその九人の娼婦たちとにアガタをゆだねた。
 彼女たちは、30日間彼女の意志を変えさせようとつ� ��め、甘言やらおどしやらで彼女の善き意図を棄てさせようとした。 しかし、彼女は言った。
 「わたくしの気持は、かたい岩のうえにたてられ、キリストのなかにしっかりとつながれています。あなたがたの言葉も、わたくしには風のようなものにすぎません。あなたがたの約束ごとも、雨のようなものですし、あなたがたのおどしも、去りゆく流水のようなものでしかありません。どんなに誘惑されても、わたくしという家は、けっして崩壊しません。というのは、堅固な岩を土台にしているのですから」アガタは、毎日女たちにこう答え、泣き、祈り、殉教者の勝利の棕櫚を待ちのぞんだ。"


 《さらに、これらの物語には好色な動機があった。初期の物語では、ブランティーナやペルペトゥアに情欲を燃やした者は誰もいなかった。事実、ペルペトゥアとフェリキタスが裸にされて群衆の前に引き出されたとき、フェリキタスはまだ出産のために出血していたので、群衆は恐怖し、女性には苦難に際しても衣服を着ける尊厳が認められるべきだと懇願したのである。
 テクラの処女性の物語においては、期待されるように、好色の要素が強いが、神の干渉によって遮られた。十三世紀までには、処女の殉教は性的攻撃を受ける形で物語られるようになった。処女の殉教者が売春宿に投げ入れられるとい� ��仕方は、明らかに男性に人気があった敵対的な空想であった。時として、処女の殉教者たちの受難は、集団強姦のように描かれていた。 「キリスト教とセックス戦争ー西洋における女性観念の構造」(カレン・アーム・ストロング 柏書房 1996年 高尾利数 訳、p258)》


 nobody:まず、アガタの述べている「岩」とは、キリストの十二使徒の一人で初代教皇とされるペテロが石に比喩されることを下敷きにしたもので、「教会」を暗示していることなのでしょう。
 州の「総督」は裁判官も兼ねる地方行政長官のような重責ですが、そうとはいっても「徴税請負人」と大差ない当時の行政組織なのですから、成果主義であこぎに成功したものの、まあ、異教徒である以前に、女の子にもてそうな感じがしないセクシャル・ハラスメント男のように描かれていることは、カレン・ア
ーム・ストロング女史の言では、「お約束な展開」のための道具だてなのでしょうから、ノー・コメントとします� ��、アガタの身の上に、どういうことが実際にあったのかは、想像するしかありません。
 想像することの恐怖だけでなく、ジャンヌ・ダルクが一旦罪を認め、約束に反してイギリス兵の管理する牢獄に女の服でつながれ・・・(省略)・・・男の服を着た罪で再堕落の審問の際の記録に触れるに、死に急いでいるような感じを受ける言葉をジャンヌが発するよう
なことなる原因があったのかもしれません。「泣き」ということから判断して、女郎屋らしいことがあったのでしょうか。ローマの歓楽街のこと「サッフォ」の手練で女同士の禁断の愛欲にショックを起こしてしまい、泣いている「うぶな娘さん」なのかもしれません。
 なお、聖女アグネスでも紹介しましたが、黄金伝 説ことLEGENDA AUREAでのアグネスが「売春宿へ閉じ込める」という意味は、アグネスは売春宿で処女喪失し・・・・そして処刑との処女処刑のローマでの法習慣、つまり、「処女を処刑することは法により禁じられていたので、まず、死刑執行人や売春宿の商人がキリスト教徒の処女の花を散らして(deflower)から処刑される、あるは、結婚すると成人と看做されると同じ法理論で、 未成年の少女は「おとな」になってから処刑される」、とのニュアンスが隠されているようです。
 このところのローマ法の解釈はどうなっているのでしょうか。この後も自由ローマ人に対して拷問などというシーンが始まるのですが、ネロの時代、ペテロの「殉教」では彼は自由ローマ人であったので処刑においても磔ではなくローマ人らしい方法で刑が執行されていましたことと比較してローマはどうなってしまったのでしょう。護民官・弁護人、がんばってください。  

2012年4月5日木曜日


MonsterTV HDUSで録画した地デジTSファイルをそのまま保存せず、CMカットしたり、aviなど他の動画形式に変換したり、編集したりを色々試し、個人的にですが今の所一番スムーズに変換できると思われる方法を紹介します。

2009.10.18追記

私の最近の地デジファイルをCMカット⇒他形式(主にMP4)への変換手順は、以下になりました。
地デジTSファイルをCMカット⇒mp4など他形式の動画に変換:2009.10月|ぼくんちのTV 別館
ここから下の情報はそれ以前の方法です。

2009.03.23追記

このページは私が地デジ放送をPCに録画出来るようになったばかりの頃に 試行錯誤して書いたもので、随分無駄な手順を踏んでいました。現在はかなり手抜き出来るようになり、以下の方法を取っています。
TS、PSの変換でこのページにたどり着いてしまった人は以下
1.VLC media Playerの意外な使い方:動画の変換、音声の変換
2.BonTSDemux(コッチのがオススメ)
をご覧下さい。

2012年4月4日水曜日


 先程読んでいただいた聖書の箇所は、<安息日>に関する二つの記事からなっていますが、今日は最初の記事を中心に見てみたいと思います。ユダヤ教では、金曜日の日没から土曜日の日没までを<安息日>としてすべての労働を休んで、神を礼拝する日とされています。ヘブライ語で"シャッバト"と呼ばれ、一切の労働が禁じられ、礼拝の日として守られたのです。

 ユダヤ教のラビたちは、このような<安息日>を守るために、詳細な禁止事項を設けたのですが、イエスは、この規則を破られたのです。それで、ユダヤ教の主流派であった<パリサイ人>との激しい対立が生じました。この対立において、イエスは、<安息日>のことだけでなく、<モーセの律法>全体をどう理解すべきかに関して、大変に重要な教えをなさったのです。今日は、このことについてご一緒に見てみたいと思います。

(1)先祖の伝承との対立

安息日を巡って

ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。 ルカ6:1

 先ず、1節をご覧ください。<イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた>と書かれています。この<麦畑>は、誰のものかは書いてありませんが、他人のものであることは確実だと思われます。

 現在の一般的な常識では、これは窃盗罪になるかも知れませんが、<モーセの律法>では、他人の畑であっても、農機具を使わずに手で摘むだけなら、許されていたのです(申命記23:25)。これは、貧民にための配慮であって、モーセの律法には、社会的な弱者に配慮するような粋な計らいがあったのです。現在のセーフティ・ネットを思わせるものですね。

すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」 ルカ6:2

 ところが、2節をご覧ください。ここには、<なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか>という<パリサイ人たち>の抗議が書かれています。<弟子たち>の行為そのものは問題ではなかったのですが、<安息日>に労働をしたと見なされたのです。

2012年4月2日月曜日


第33回東京スピリチュアル・マーケット
2012年3月25
日(日) 10:30~18:00
国際ファッションセンター 3F KFCホール にて
当日券 ¥1,500

◆多次元(パラレル)コネクション
光の銀河・アシュタルの複合高次元生命体"アリウル"と
お話してみませんか?

ナビゲーター:
光の複合生命体"アリウル":「aeko」
各ソースとのチャネル&翻訳:「ブルーウィング・ノエル」

今回は、多次元言語リーディングのデモンストレーションの一環として、特別プロモで参加してきます。
お一人様15分二千円


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"愛のさじ加減"ーーー

全てが終わって解明しましたが、光と闇の統合には、この愛のさじ加減によるバランス調整 が地球はもちろん銀河レベルで利用されていました。

ここでわかったのは、愛の力がいかに大きいかということです。

もう時は満ちて、これからは愛が全開かつ世界に拡散するタイミングに入りました。

「愛はある」と先日お伝えしましたが、簡単に言えばそこに新しい次元でのベクトルをつける感覚ですね。

これまでもたくさん実践はされていましたが、闇があまりにも深かったため、成し遂げられなかったことも多くありました。

でもそれすらも、本当の愛を知る素晴らしい体験となったことも事実です。

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