2012年4月4日水曜日

安息日の主であるキリスト


 先程読んでいただいた聖書の箇所は、<安息日>に関する二つの記事からなっていますが、今日は最初の記事を中心に見てみたいと思います。ユダヤ教では、金曜日の日没から土曜日の日没までを<安息日>としてすべての労働を休んで、神を礼拝する日とされています。ヘブライ語で"シャッバト"と呼ばれ、一切の労働が禁じられ、礼拝の日として守られたのです。

 ユダヤ教のラビたちは、このような<安息日>を守るために、詳細な禁止事項を設けたのですが、イエスは、この規則を破られたのです。それで、ユダヤ教の主流派であった<パリサイ人>との激しい対立が生じました。この対立において、イエスは、<安息日>のことだけでなく、<モーセの律法>全体をどう理解すべきかに関して、大変に重要な教えをなさったのです。今日は、このことについてご一緒に見てみたいと思います。

(1)先祖の伝承との対立

安息日を巡って

ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。 ルカ6:1

 先ず、1節をご覧ください。<イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた>と書かれています。この<麦畑>は、誰のものかは書いてありませんが、他人のものであることは確実だと思われます。

 現在の一般的な常識では、これは窃盗罪になるかも知れませんが、<モーセの律法>では、他人の畑であっても、農機具を使わずに手で摘むだけなら、許されていたのです(申命記23:25)。これは、貧民にための配慮であって、モーセの律法には、社会的な弱者に配慮するような粋な計らいがあったのです。現在のセーフティ・ネットを思わせるものですね。

すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」 ルカ6:2

 ところが、2節をご覧ください。ここには、<なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか>という<パリサイ人たち>の抗議が書かれています。<弟子たち>の行為そのものは問題ではなかったのですが、<安息日>に労働をしたと見なされたのです。


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 <弟子たち>の行為のどの部分が労働とされたかと言えば、先ず<麦の穂を摘んで>が収穫と見なされ、第二に<手でもみ出して>が脱穀と見なされました。実は、2世紀後半に、ラビたちの伝統が文書化されて、ミシュナー(繰り返しという意味で、モーセによって与えられたという口伝律法とその注解)という書物にまとめられていくことになるのですが、その中に安息日に禁止される39の細目が定められていて、<弟子たちの>のこの二つの行為が収穫あるいはと脱穀と厳格に解釈されて禁止されているのです。確かに、本格的な収穫と脱穀は禁止されるのは理解できますが、食事を取るための細かな行為の詳細にわたって禁止するというのが、パリサイ派の律法解釈の特徴でした。

細目の偶像化

あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。 マルコ7:8

 パリサイ派のラビたちは、<安息日>に関する規則の他に、神が613の戒律を与えた、という結論に至りました。それらの細目は、ラビたちが長年研究を重ねて、導き出したものです。こうして、そのような細目が絶対視されるようになり、それを守ることが、神への忠実とされたのです。

 ところが、イエスは、このようなユダヤ教のあり方を批判されたのです。マルコ7:8をご覧ください。ここでは、このような細目を<人間の言い伝え>とされて、<神の戒め>に反するものとされたのです。ここに、<戒め>に<神の>が掛かり、<言い伝え>(パラドシス)に<人間の>が掛かっていることに注目する必要があります。<言い伝え>とは、ラビたちはこれを「神からのもの」としていたのですが、イエスはそれを<人間の>(人間からの)ものとされたという点は重要です。最初は、「モーセの律法」という神の啓示から始めたのですが、人間が細目を作り上げるうちに、神の真意が見失われてしまって、結果的にそれを啓示された神に背くものになった、ということです。これは。細目の偶像化とも言えるもので、宗教に� ��遍的に見られると思います。

それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。  ローマ1:21

 このようの事例は、ユダヤ教だけではありません。ローマ1:21をご覧ください。ここは、パウロが異邦人(非ユダヤ人)の宗教性について述べているところなのです。<彼らは神を知っていながら>とありますが、この<知ってい(る)>(ギノースコー)は、「経験を通して知るようになる」(織田昭小辞典)ことを意味しています。これは、いろいろな意味で自然に触れることが、それを造られた神を体験的に知ることである、ということを意味しています。


神の愛の誰もがしない

 このような意味で、神を知るのは、自然だけではありません。歴史や人生に起こり来るいろいろな出来事を通して、人は神を体験しているのです。このような普遍的な啓示に触れているにもかかわらず、あるいは、啓示に触れることから始めたにもかかわらず、<その神を神としてあがめず、感謝もせず …>という人間の宗教性の無力さを、パウロは述べているのです。どのような形であれ、神の啓示に触れたとしても、人間の歪んだ認識は、神のみこころとはまったく逆の方向に行ってしまうのです。原罪を背負う人間の宗教性を、パウロはこのように描いているのです。

(2)安息日の主

人のための安息日

あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。      ルカ6:3

 イエスは、パリサイ人たちの抗議に対して、どう応えられたでしょうか?6:3をご覧ください。イエスは、ダビデの事例を挙げておられます。ダビデがサウル王に追われて逃亡したとき、律法では祭司しか食べることが許されていないパンを食べたという、事実が指摘されているのです。このように、命の危険が迫っているような緊急時には、律法は柔軟に解釈されるべきなのだ、とイエスは主張されたのです。そして、これが律法に関するイエスの解釈であるがゆえに、神の啓示なのです。

 イエスの弟子たちのこの時の状況を考えてみましょう。彼らは、ハードな伝道旅行の途中にあって、食事が手に入らない状況にあったのです。伝道活動を継続するためには、空腹を避ける必要がありました。大げさに言えば、飢餓の危険があったのかも知れません。そのような事情からすると、彼らの行動は、おそらく最善のものであったことでしょう。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。  マルコ2:27

 イエスとパリサイ派の律法解釈の違いに関して、もう一つ、マルコ伝の並行記事を見てみましょう。マルコ2:27をご覧ください。パリサイ派の宗教を<人間が安息日のために造られた>と言い表した上で、イエスは、<安息日は人間のために設けられた>と、正しく解釈されたのです。安息日に労働を休み、神を礼拝するのは、神の栄光を覚えるためですが、人間にとっても益になることなのだ、ということです。神は、人間を隷属させるためだけに、<安息日>を定めたのではないのです。イエスの教えにおいては、神の栄光と人間の幸福は調和しているのです。神はご自分の栄光の保持と同時に、人間に対する恵みをも配慮しておられるということです。


なぜ人々は贖罪の日を祝うん。

 以上のようなイエスの解釈とパリサイ人の解釈には、大きな開きがあります。イエスの律法解釈は、神の栄光を目指すという方向を保持しつつも、人間の幸福も配慮するという、また、その人間の幸福もまた神の栄光に帰するという、相互に関連するものでした。これは、三位の交わりにおいて唯一の御方としてある、という神のあり方の本質から、人間との関わることにおいても、「交わり」(コミュニケーション)が重視されるのは、当然のことだと言えるでしょう。このような事情から、イエスの宣教のあり方も、相手の事情に対応した対話によってなされました。ですから、相手の事情を考慮しないで、<人間の言い伝え>を一方的に押し付けるパリサイ派の律法解釈は、神のご性質とは異質のものと言えます。

安息日の主

人の子は、安息日の主です。  ルカ6:5

 もう一つ、安息日について、イエスが教えられたことがあります。6:5をご覧ください。この文では、<主>(キュリオス)が最初に来て強調されています。すなわち、「主です、安息日の、人の子は」という順になっています。

 キリストが<安息日の主>とは、どういう意味でしょうか?それは、<安息日>において重要なことは、<人間の言い伝え>に拘束されることではなくて、キリストのみこころに仕えることなのだということなのです。ですから、その時、その場において、語られる「神の御声」(神のみこころ)を聞く霊的な感性が要求されるのです。6節以降の安息日の癒しの記事が示すように、ある<安息日>の礼拝において、神の摂理によって癒されるべき人、救われるべき人がいました。しかし、そうなさろうとしておられる「神のみこころ」と切り離されているのが、<パリサイ人>の宗教なのです。さらには、根本的な問題として、メシアとして到来された<神の子>を認識できず、細かい<人間の言い伝え>を<神の子>に強要するパリサイ人の� �教性をどう考えたら良いのでしょうか?

(3)宗教性の限界

パリサイ人の宗教性


私は … ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。 使徒22:3

 最後に、パリサイ派の宗教性のこのような無力さについて考えて見ましょう。この件に関してもっとも語る資格があるのは、パウロだと思います。使徒22:3をご覧ください。これは、パウロがパリサイ派に属していたときの様子を告白しているところです。ここで、自分を<神に対して熱心な者>であったと言っています。<熱心な者>(ゼーローテース)は、武装闘争も辞さなかった「熱心党」にも用いられる言葉ですが、パウロの場合、一般的な意味で解釈されます。

 ここに、人間の宗教性の限界を見る思いがします。ユダヤ人は、最も神の啓示に近く、とても信仰に熱心な民族でしたが、イエスは、彼らが<神の戒めを捨てて>いるとされたのです。最も神の啓示に近い民族でさえ、実際的な宗教的な行為においては、そも熱心さの頂点においても神に背くものであったというのです。それは、人間の宗教性がいかに毀損されているか、いや、いかに神に背くものであるのかを証明しているのです。現在においても、本来は平和をもたらすはずの宗教が、争いの原因の一つになっている理由も、そこにあります。

信仰における傲慢

人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。  箴 18:12

 人間の宗教性のこの無力さを<パリサイ人>との論争の記事を通して見て来ましたが、それは人間に普遍的であることを自覚しておく必要があります。宗教性のこの毀損に関連して、<高慢>という罪を考えてみましょう。<神の戒め>を退け、<人間の言い伝え>にこだわるという<パリサイ人>の宗教性の本質が、<高慢>そのものであると言えるからです。箴言18:12をご覧ください。ダンテの『神曲』の中では、七つの大罪の筆頭にこの<高慢>が出てきます。これは、当時のキリスト教界の見解を反映したものと思われますが、元々、聖書では、多くの罪の中で<高慢>(ガーバー)が特別なものと見なされているように思います。なぜなら、<高慢>とは、自らを高めるという意味で、究極的には、自らを神格化することを目指してい るので、他のあらゆる罪の根源にあるものと考えられるからです。<高慢>になることに成功すれば、人は自らの存在の意味を実感できるので、それは、人の心の根底にあって自我を支えるものなのです。そのことが、宗教においては自己義(自己正当化)を求めさせる根本的動機となるのです。しかし、それが虚構であることは、言うまでもないことです。ここに、宗教の限界があります。


 そこで、キリストが<安息日の主>とご自分のことを宣言されたことに、心を留める必要があります。なぜなら、キリストを<主>(キュリオス)とする、神との交わりにおいて始めて、<安息日>の真の意義が回復され、人間の真の宗教性も回復されるからです。神の御前に出ることにより、原罪を背負う自分の姿が明らかにされ、キリストを<主>とする本当の<謙遜>に導かれるのです。箴言18:12の後半をご覧ください。この<謙遜>こそが、聖書においては、最大の美徳とされているのです。そして、それは、人が試練を受ける理由であり、試練の目標なのです。さらに、それは、<栄誉に先立つ>、すなわち、多くの祝福が伴うからです。



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