†「神に望みを置くように」 | IChurch Kitakami
7月 10, 2011
聖書:創世記30:25-34
導入 富と信仰
主イエスは空腹の時に悪魔の誘惑を受けて、神の子なら石をパンに変えてみろと言われた時、こう答えました。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』
生活に必要とされるものをひとつひとつはぎ取られていったとしても、最後の最後で永遠にいのちを保ってくれるのは神のことばだけです。
とは言っても、私たちは普通にこの世界に暮らし、食べるものも着る物も住む家も手に入れなければなりませんし、そのためにこの世の富をささやかではあっても手に入れるために働かなければなりません。
特に長い不況と言われ、さらに震災の影響でこの当たりでは仕事の時間や休みのサイクルも大きく変わって、労働環境は悪くなっているようです。
そういう中で私たちは何とか生き延びようと必死になるわけですが、同時に信仰者として「人はパンだけで生きるのではない」ということをどのように、具体的に実践できるのかと問いかけられています。
今日の箇所でもヤコブは持ち前の計算高さを大いに発揮して故郷に帰るための資金作りにいそしむワケですが、いったいどんなことを学び取ることができるでしょうか。彼の富を手に入れる計算高さと信仰とはどう関係していたのでしょうか。
1 腹の探り合い
嫁たちの醜くも哀しい競争によって大家族となったヤコブは、とっくにラバンとの契約期間が過ぎていました。
ラケルと結婚するために7年働き、結婚式を挙げてみれば与えられたのは姉のレア。それでラケルも妻としてもらうかわりにさらに7年間追加でラバンに仕えることになっていました。
ヤコブにしてみれば、十分すぎるほど仕えて来たはずです。何しろ、これまでの働きは妻を得るためのものなので、報酬らしい報酬は受け取っていませんでした。普通ならヤコブほどの働きをしたらとっくに自分の家を持っていてもおかしくはないほどに、彼が生み出した富は莫大なものでした。
それでヤコブはラバンにここを離れて故郷に帰りたいと申しでたのです。
それは当然の願いです。ラバンのずるいやり方に辟易としていたということもあるでしょうし、そもそもここにずっといるつもりではなく、いずれは故郷に帰るつもりで旅立ったのです。それ以上に、神ご自身がヤコブを祝福し、アブラハムへの約束の後継者として必ず連れ戻すと言って下さったのです。
ヤコブはかなり強い口調でラバンに要求したことが、もとの言葉の使い方から判ります。ラバンの婿養子、あるいはしもべという立場でしたから、ラバンの許可は必要であったものの、決意は固かったのです。
ヤコブは家族を連れて故郷に戻るのはこれまでの働きからすれば当然の報酬と主張しています。
一方ラバンは、例によってずるがしこく立ち回ります。
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27節でラバンは言います。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている」
最後まではっきりと口にしていませんが、ラバンはできれば残って欲しいと言っているのです。というのも、彼の家がここまで豊かになったのはヤコブの神、主がヤコブを祝福してくれたからだと気づいていたのです。彼はそれを「まじないで知っている」と言っています。
ラバンはヤコブの神、主も知っていましたが、彼の信仰は純粋なものではなく、土地の信仰が入り交じったものでした。だから主の祝福のしるしを見つける事もできましたが、それを確かめるためにまじないもしたのです。
しかし、そう言いながらラバンは28節で「望む報酬を申しでてくれ」と言っています。
これに対してヤコブは29〜30節で自分の働きぶりについて語っています。これはどういうことかというと、いくらラバンが報酬を与えると言っても、今までがいままでだから信用できないと遠回しに言っているのです。
それでも「何をあなたにあげようか」というのはヤコブは信用ならない口約束より、自分で財産を貯める事を選び、そのチャンスに変えたのです。
2 ヤコブの報酬
ヤコブが求めた報酬はあの地域の家畜の事情を知らない私たちにはすぐにはピントきません。けれどもそれは一見あのケチなラバンを満足させるものでした。
もう暫く働いてくれる上に、報酬として求めたものは小さなものだったからです。
この地域では羊といえばほとんどが白で、黒毛の羊はあまりいませんでした。また山羊といえば黒いのが普通で、白い毛が混じったまだらやぶちの山羊は、やはり少ない方だったのです。
ラバンは腹の中で素早く計算し、慎み深い申し出をした婿殿に、34節で「そうか。あなたの言うとおりになればいいな」と承諾しました。「あなたの言うとおりにしましょう」という契約を結ぶ時の重々しい言い回しなのですが、それにはどこか「簡単過ぎる」という疑いが入り交じっています。
実際ヤコブにはさらに秘めたる魂胆があったのです。
ラバンがあくどい伯父さんだとすれば、ヤコブはしたたかでした。
ラバンの群れの中から黒い羊と白い毛の混じった山羊だけを選んでヤコブに与えました。残りは自分の息子たちに与えました。
ヤコブが来た当初は息子がいなかったようですが、このときには群れの世話をできるほどに成長した息子たちがいました。
ヤコブへの報酬を少しでも少なくしたいラバンは、群れがまざって黒毛の羊やまだら毛の山羊が増えないよう、念のため、互いの群れを歩いて三日の距離だけ間を開けさせたのです。
しかしヤコブには考えがありました。
37節以降はその具体的なやり方が書いています。私たちから見ると何のことかと思いますが、これはどうやら群れ繁殖力を高めるための当時のやり方だったようです。
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おそらく現代の畜産技術からすれば、迷信にすぎない、何の根拠もない方法だったかもしれません。このような事が、神への信仰とどう結びつくのかよく分かりません。
やり方は迷信的であっても、神が祝福してくれると信じたのかもしれません。事実、神は約束の地に帰るまで守り導くという約束、ラバンの家で仕えている間も果たし続け、結果として彼らの家は豊かになったのです。
ヤコブが自分のものになる群れを増やすことに成功し、しかも数だけでなく、強い群れになったということですから、質の高い群れを育てることに成功しました。
けれどもこれは、ポプラやアーモンドの木の枝のおかげではなく、神の恵みによるものに他なりませんでした。
こういうやり方で6年かけて、最終的には43節にあるように、「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」のです。
3 神に望みを置く
ヤコブは何度も変わるラバンの口約束に振り回されながらも、したたかに振る舞い、大きな財産を築きました。けれどもこれらの財産の多くは、ヤコブが故郷に帰る時に兄エサウへの贈り物として消えてなくなります。そうなることを見越していたのかは判りませんが、一文無しでやってきたヤコブが非常に多くの財産を手にすることになったのは、彼の知恵や努力以上に、神の祝福によるものであることははっきりしていました。
神が約束した祝福が確かに果たされているということは明白だったのに、ヤコブはなぜ神に祈るのではなく、迷信に頼るようなことをしたのでしょうか。
また神はなぜそのようなヤコブの迷信による行いにも拘わらず、彼を祝福し、群れを増やしてあげたのでしょう。
あとでヤコブは告白していますが、実はこの頃、神の御使いが夢の中に表れていました。そして、ラバンから受け取った黒毛の羊やしま毛の山羊がヤコブの報酬になると言われ、さらには、ヤコブに対するラバンの仕打ちを神がご覧になっていて、ヤコブへの約束を果たすために事をなしてくださることを告げました。
神がヤコブを祝福するのは、神が彼を愛し、選び、約束したからであって、彼が正しいからではありませんでした。しかもヤコブの足りなさや明らかな間違いがあってもそれを長い間忍耐し、その間も恵みを注ぎ続け、すべての事が神の祝福、恵みによるのだと気づくのを待ちました。
神の目的は単に、ヤコブが何かの行動をするときに常に正しい選択をするようになることではありませんでした。彼の生涯を通して、様々な失敗や問題を経験しながら成長し、自分の知恵や力ではなく、祝福を与えてくださる神ご自身に信頼し、望みを置くようになることだったのです。
言い換えるなら、神は間違いのない完璧な生活をするよりも、神を愛する者になって欲しいと願うのです。
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ヤコブにとって、財産を殖やすことは、ラバンに仕えた事への正当な報酬を得る、というだけのことではありませんでした。
大家族を養わなければなりませんし、将来に備えなければなりません。この地域にはしばしば大飢饉が訪れましたから、いざという時のために家畜は多いほど安心です。
それは現代の私たちにとってのお金と同じようなことです。実際生活にとって必要なものであり、将来に備えなければならないものです。
神が与えて下さると信じて何の備えもしないというのも一つの生き方ですが、聖書は私たちに勤勉に働くことを命じていますし、得た財産を賢く用いるように教えています。肝心なのは、富の豊かさに安心を求めるのではなく、与えてくださる神ご自身に信頼し、望みを置くことです。
ヤコブはそのことを長い時間かけて学びました。約束されたものを反故にされたり、苦労して手に入れたものを失ったりしながら、神に望みを置くことを学んだのです。
適用 楽しませて下さる方に
ヤコブのしたたかなやり方を見ていて考えさせられたことは、現代人の私たちのお金や財産に対する態度です。
最初に話したように、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』のです。
それである人はお金を得ること、将来のためにたくわえることに奇妙な感情を持ちながら取り組むことになります。信仰者なのに、あまりお金お金と言うことは良くないとか、将来の生活のために蓄えたり保険をかけたりするのは不信仰だ、というようなことを言う方もかつては結構おられたものです。
けれどもだれもがお金が必要なことは判っているワケで、表向きは「信仰によって」「神に委ねて」と言いながら、結構したたかに蓄えたりするわけです。
残業時間を増やし、ある部分では生活費を切り詰め、スーパーでは特売品やポイントが高くつくものを中心に買います。家族で回転寿司を食べに行く時には、事前にカップラーメンを食べさせてから行く、なんて話しも聞いたことがあります。
ヤコブほどにたくさんの財産を持っているワケではありませんが、基本的には同じなわけです。
そこで、全能の神を信じる者でありながら、常に幸運に恵まれてたやすく財産が増えるわけではなく、この世に生きる普通の人間として生活していく上で、どのような信仰姿勢、考え方を持っていたらよいでしょうか。
神がヤコブの生涯を通して教えたことを、現代の私たちに置き換えるならどんなことが言えるでしょうか。
ヤコブの時代よりは現代人の経済活動に誓い生活を送っていた新約聖書の時代の教えに耳を傾けましょう。
第1テモテ6:17でパウロは若き指導者テモテにこのように教えています。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」
高ぶるというのは、何も貧しい人に対して横柄な態度を取るというだけの意味ではありません。神に頼らなくても、あまり信仰、信仰と言わなくてもやっていけるという心、態度、考え方、行動をとる事も高ぶることです。
生活のため、将来に備えるために一生懸命働くこと、またその働きの実を楽しむことも良いことです。しかしそれらは決して私たちの平安と喜びをもたらすものではない、という自覚を持つこと。むしろ、それらを与えてくださった神への信頼、希望をどのように表していくか、よくよく生活を振り返ってみる必要はないでしょうか。
表向きの考え方ではなく、私たちの生活の仕方、仕事の仕方、霊的な成長や充実のための時間や家族の時間とのバランスなどに、私のお金に対する本当の考え方が表れます。私たちは与え、楽しませてくださる方を喜び、望みを置いて暮らしているでしょうか。
祈り
「天の父なる神様。
ヤコブのしたたかな振る舞いは、私たちに少し後ろめたい気持ちを思い出させます。
この世に生きる者として、お金も財産もある程度は必要です。そのためにいつの間にか、自分自身の霊的な豊かさや家族との時間、人生を楽しむことを犠牲にしてまで、一生懸命になったり、工夫したり、節約したり。私たちもヤコブと同じです。
ですから、どうか私たちが必要とし、また恵みによって与えられたこれらのものを感謝しつつも、それらに望みを置く愚かさからお守りください。むしろ、与えてくださり、楽しませて下さる神ご自身に信頼し、感謝し、望みを置く信仰を増し加えてください。
今一度、自分自身の生活を振り返り、見直す機会としてください。
私たちを愛し、必要をご存じで、恵み豊かに与えてくださるイエス・キリストの御名によって祈ります。」
(C)Masaki Sasaki
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